ガソリンスタンドで働く雅樹は、草野球チームに所属する無口で冴えない青年。仕事にも野球にも積極性がなく、周囲から馬鹿にされてもほとんど反応を示さない。
ある日、勤務先でヤクザと些細なトラブルを起こしたことから、暴力団に目をつけられてしまう。事態を収めようとした草野球チームの関係者まで巻き込まれ、騒動は次第に大きくなっていく。
追い詰められた雅樹は、仲間とともに拳銃を手に入れるため沖縄へ向かう。そこで出会ったのは、組織からはみ出した粗暴なヤクザの上原だった。上原たちとの奇妙な交流を経て、雅樹は拳銃を手に東京へ戻る。
何事にも無関心だった青年が、いつしか暴力の世界へと踏み込んでいく。日常の些細な出来事から始まった騒動は、やがて取り返しのつかない方向へと転がっていく。結末のネタバレを避けた、ブログ掲載向けのオリジナル要約。松竹の公式作品情報を参考に作成。
監督2作目にして、いきなりアートへ
北野武の凄さは、監督2作目にして、いきなりこんなマニアックな映画を撮ってしまったことにあると思う。
デビュー作『その男、凶暴につき』も十分に異色だった。暴力の描き方、独特の間、説明を省いた人物描写など、すでに北野映画の特徴がいくつも顔を出している。ただ、あちらは一応、刑事映画というジャンルの枠組みがあった。主人公は刑事で、犯罪者を追い、事件が起こり、暴力によって物語が進んでいく。演出は独特でも、映画の構造そのものは比較的わかりやすい。
ところが『3-4×10月』では、その枠組みさえ平気で壊してしまう。
物語は一応ある。ヤクザとのトラブルに巻き込まれた青年が、拳銃を手に入れるため沖縄へ向かう。あらすじにしてしまえば、それなりに筋の通った犯罪映画だ。
しかし、実際に観てみると、どうにも普通ではない。
まず主人公が主人公らしくない。無口で、反応が鈍く、何を考えているのかもよくわからない。映画を引っ張っていくような強烈な個性もなければ、観客が感情移入できるような心理描写もほとんどない。
それだけではない。物語を盛り上げようという気配そのものが薄い。普通なら重要な場面として扱われる出来事があっさりと過ぎ去り、逆にどうでもよさそうな時間が妙に長く続く。
商業映画として考えれば、かなり無茶苦茶な構成だ。
しかし、そこが面白い。
北野武は、観客を楽しませるために物語を組み立てるのではなく、自分が面白いと思う映像や時間の流れを、そのまま映画にしてしまったように見える。
しかも、まだ監督2作目である。
普通なら、まずは映画監督としての技術を身につけ、わかりやすい作品で実績を積み、それから徐々に独自の表現へ向かっていくものだろう。
ところが北野武は、そんな段階をすっ飛ばしている。
動かないカメラと、妙に長い沈黙
この映画で特に面白いのは、カメラの置き方だ。
撮影を担当したのは柳島克己。35mmフィルムで撮影された本作では、固定されたカメラと、人物を少し離れた位置から捉える構図が印象に残る。
普通の映画では、人物が話し始めれば顔に寄り、何かが起こればカメラが動き、感情が高まればクローズアップを使う。観客の視線を誘導するために、カメラはさまざまな仕事をする。
しかし北野映画のカメラは、そうした仕事をあまり積極的には引き受けない。
人物が画面の中に入り、何かを話し、何かをして、場合によってはそのまま立ち去っていく。カメラはそれを淡々と見ている。
人物の動きに合わせて画面を細かく組み立てるのではなく、あらかじめ決められた構図の中で出来事を起こしているような印象がある。
だから、画面には妙な余白が生まれる。
何も起こっていない場所が映っている。人物が黙っている。会話が途切れる。それでもカメラは慌てて次のカットへ逃げようとしない。
この間が、なんとも北野武らしい。
しかも、長く見せるところと、あっさり切ってしまうところの落差も大きい。じっと眺めていたかと思えば、重要そうな出来事が突然終わってしまう。
普通の映画なら、もう少し丁寧に見せるだろうというところで、何の未練もなく次へ進んでしまうのだ。
この独特な時間感覚は、単純に長回しが多いという話ではない。何を見せ、何を省略するか。その判断が一般的な映画の文法とずれている。
しかも、そのずれが偶然には思えない。
観客にとって必要な情報を順序よく与えることよりも、画面そのものが持つ不思議な空気を優先しているように感じられる。
音楽を捨ててしまった大胆さ
さらに驚くのは、この映画には劇伴が使われていないことだ。
映画における音楽は非常に便利なものだ。悲しい場面では悲しい音楽を流し、緊張する場面では不穏な音を重ねる。それだけで観客の感情をある程度コントロールできる。
しかし『3-4×10月』は、その便利な手段を最初から放棄している。
だから、聞こえてくるのは人物の声や物音、周囲の環境音、そして沈黙だ。
画面の中で何かが起こっても、音楽がその意味を説明してくれることはない。
ここで笑えばいいのか、緊張すればいいのか、悲しめばいいのか。それを判断するのは観客自身になる。
この突き放した態度が実に面白い。
そもそも映画というのは、映像と音によって観客の感情を動かす芸術だ。その重要な手段のひとつを使わないというのは、かなり大胆な選択である。
しかも、音楽を使わないことが単なる奇をてらった実験に終わっていない。
無表情な人物、動かないカメラ、長い沈黙。これらが組み合わさることで、独特の緊張感が生まれている。
何かが起こりそうで、なかなか起こらない。
そして、忘れたころに突然起こる。
音楽による予告がないぶん、暴力の唐突さも際立っている。
暴力を盛り上げないという異常な演出
北野武の映画を語るうえで、暴力は欠かせない要素だ。
ただし、その描き方は一般的なアクション映画とはまるで違う。
普通のアクション映画では、暴力は見せ場になる。カメラを動かし、カットを細かく割り、音響を強調して、迫力のある場面をつくり上げていく。
ところが『3-4×10月』の暴力は、妙にあっけない。
それまでくだらない会話をしていた人物が、突然殴りかかる。何の前触れもなく暴力が始まり、気がつくと終わっている。
暴力に至るまでの感情の高まりを、いちいち説明してくれないのだ。
むしろ、暴力そのものよりも、その前後にある奇妙な空気のほうが印象に残る。
この映画では、暴力が特別な出来事として演出されていないように見える。日常の延長線上に、突然暴力が存在している。
そこが怖い。
そして、同時に笑えてしまう。
北野武の映画では、暴力と笑いが妙な距離で隣り合っている。笑っていた次の瞬間に人が傷つき、残酷な場面なのにどこか滑稽に見える。
普通なら、そのどちらかに整理したくなるはずだ。
しかし北野武は整理しない。
笑えるところは笑えるまま、残酷なところは残酷なまま、同じ画面の中に放り込んでしまう。
この感覚は、お笑い芸人としてのビートたけしと無関係ではないだろう。
ただ、映画の中では笑いをわかりやすいオチへと結びつけることさえ避けている。ギャグのようなことが起こっても、何事もなかったように次の場面へ進んでしまう。
笑いを説明しない。暴力も説明しない。
この徹底した無愛想さこそ、北野映画の個性なのだと思う。
沖縄に移ってから、映画はますます奇妙になる
物語の途中で舞台が沖縄へ移ると、映画の雰囲気はさらに変わっていく。
前半はまだ、東京でヤクザとのトラブルに巻き込まれる青年の話として理解できる。
ところが沖縄では、ビートたけし演じる上原が登場し、物語の中心を奪ってしまうような展開になる。
上原は粗暴で、気まぐれで、どうしようもない男だ。周囲の人間を振り回し、くだらないことに時間を費やし、突然暴力を振るう。
この人物が登場することで、それまでの映画が別の映画に変わってしまったような感覚さえある。
普通の脚本なら、主人公の目的に沿って登場人物を配置し、事件を整理しながら結末へ向かわせるはずだ。
しかし、本作では上原という人物の存在そのものが大きくなり、肝心の主人公がますます背景へ退いてしまう。
一体、誰の映画なのか。
そんな疑問まで湧いてくる。
沖縄の明るい風景も印象的だ。青い空、強い日差し、開放的な空間。普通なら南国らしい気持ちのいい映像になるところだが、そこにいるのはどうしようもない男たちである。
美しい風景と、くだらない行動。そして唐突な暴力。
その組み合わせが、何とも言えない違和感を生んでいる。
後の『ソナチネ』を思わせる部分もあるが、『3-4×10月』のほうがまだ雑然としていて、整理されていない感じが強い。
しかし、その荒っぽさが魅力でもある。
物語を美しくまとめることなど、最初から考えていないようにさえ見えるのだ。
人物の感情を説明しない。それでも映画になる
本作の主人公、雅樹も相当に変わっている。
普通の映画なら、主人公には明確な目的や感情が与えられる。怒り、悲しみ、恐怖、復讐心。そうした感情を観客が理解することで、物語に入り込んでいく。
ところが雅樹は、そうした内面をほとんど表に出さない。
何を考えているのかわからないし、状況に対して積極的に行動しているようにも見えない。
観客は主人公の気持ちを理解するという、映画を観るうえで当たり前の手がかりを奪われてしまう。
しかし、これは演技が下手だとか、人物描写が不足しているという単純な話ではないと思う。
むしろ、人物の内面を説明しないことで、観客に一定の距離を保たせている。
私たちは雅樹になりきって物語を体験するのではなく、雅樹という奇妙な青年の行動を、少し離れた場所から眺めることになる。
その距離感が、固定されたカメラの構図ともよく合っている。
カメラは人物に寄り添わない。音楽も感情を説明しない。俳優の演技も必要以上に感情を表現しない。
つまり、この映画では、通常の商業映画が観客を物語に引き込むために使う手段の多くが、意図的に弱められているように見える。
それなのに、妙に目が離せない。
このあたりが、単なる奇妙な映画では終わらない理由なのだろう。
物語の結末すら、観客に委ねてしまう
そして終盤、本作はさらに大胆なことをする。
それまで積み重ねてきた出来事が、最後の展開によって別の意味を帯び始めるのだ。
いわゆる夢落ちとして解釈することもできるが、そう片づけてしまうと、この映画の奇妙さを少し取り逃がす気がする。
そもそも、それまでの物語自体がどこか現実離れしている。登場人物の行動には不自然なところが多く、出来事のつながりも必ずしも滑らかではない。
だから最後の展開を見せられると、観客はそれまで観てきた映像をもう一度考え直すことになる。
どこまでが現実で、どこからが空想なのか。
しかし、映画はそれについて明確な説明を与えない。
一見すると投げっぱなしにも思えるが、そこまで含めて、この映画の自由さなのだろう。
物語を論理的に完成させることよりも、映画を観終わった後に残る奇妙な感触を重視しているように思える。
そもそも、よくできた物語と、面白い映画は、必ずしも同じではない。
筋が通っていて、伏線が回収され、登場人物が成長し、納得できる結末にたどり着く。それはそれで映画の魅力だ。
しかし『3-4×10月』は、そうした完成度とは別の場所で勝負している。
物語の整合性よりも、映像の面白さ。
説明よりも沈黙。
感情移入よりも距離感。
そんな映画があってもいいのだと、北野武は平然と示している。
『ソナチネ』や『HANA-BI』よりも、むしろ衝動がむき出しになっている
後の北野武作品と比較すると、『3-4×10月』はまだ荒削りな映画だと思う。
『ソナチネ』では、沖縄の風景と暴力、静けさと死の関係が、より洗練された映像表現へと発展している。
『HANA-BI』になると、画面構成や編集、音楽の使い方まで含めて、北野映画の美学がひとつの完成形に到達したように感じられる。
それらと比べれば、『3-4×10月』には未整理な部分も多い。
しかし、だからといって劣っているとは思わない。
むしろ、この映画には、後年の作品からは失われていくような、むき出しの衝動がある。
面白いと思ったことを、そのまま撮ってしまう。普通の映画なら必要とされる説明も、盛り上げ方も、遠慮なく捨ててしまう。
しかも、それを自分の脚本で実行している。
北野武は後年のインタビューで、本作について失敗だったと振り返っている。前作とは違うテンションの映画を目指したという本人の言葉も興味深い。
しかし、作り手が失敗作だと考えていることと、その映画に独創的な価値があることは、まったく別の話だ。
仮に映画として不器用なところがあったとしても、監督2作目でこれほど強烈な個性が表れていることには驚かされる。
映画の文法をよく知らないから自由なのか。それとも、わかったうえで意識的に壊しているのか。
その境目さえ曖昧なところが面白い。
監督2作目で、ここまでやってしまう凄さ
映画監督には、長い時間をかけて自分の作風を確立していく人もいれば、デビュー作から強烈な個性を発揮する人もいる。
北野武は明らかに後者だと思う。
しかも『その男、凶暴につき』で独特な演出を見せた直後に、『3-4×10月』でさらに極端な方向へ突き進んでしまった。
普通なら、前作で評価された部分を伸ばし、観客が期待するような作品をつくろうと考えるところだろう。
しかし、北野武はそうしなかった。
刑事映画から、わけのわからない青年とヤクザたちの不条理な物語へ。音楽を使わず、感情を説明せず、物語の構造さえ不安定にしてしまう。
これを監督2作目でやるのだから、恐れ入る。
もちろん、誰にでも勧められる映画ではない。退屈だと感じる人もいるだろうし、何が面白いのかわからないという感想も理解できる。
実際、親切な映画ではまったくない。
しかし、映画を単に物語を伝える道具ではなく、映像と音、時間そのものを表現する芸術だと考えれば、この作品の見え方は大きく変わってくる。
固定されたカメラ、妙に長い沈黙、無表情な人物、突然の暴力、くだらない笑い。それらが説明もなく並べられることで、他の監督にはなかなか生み出せない独特の世界が成立している。
これは、単に変わった映画を撮ろうとしただけでは生まれないものだと思う。
北野武自身の感覚が、映画という媒体と異様なほど相性がよかったのではないだろうか。
それまでの映画監督たちが積み重ねてきた技法を丁寧になぞるのではなく、映画の常識そのものにあまり関心がないかのように、自分の感覚で画面を組み立ててしまう。
その結果、誰の映画にも似ていないものができあがった。
『3-4×10月』は、洗練された傑作というより、北野武という映画監督の異常な才能が、まだ整理されないまま噴き出している作品なのかもしれない。
それにしても、これが監督2作目というのは凄い。
後に世界的な評価を得る監督になることを知ったうえで観ても、やはり驚かされる。
北野武は、映画監督になるために少しずつ映画を学んでいったというより、最初から自分の中にあった独特の世界を、映画という形で表現できてしまった人なのではないか。
少なくとも『3-4×10月』を観ていると、そんなことを考えてしまう。



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