女にモテたい、セックスがしたい。ただそれだけの欲望で生きている冴えない男・朝男。ある日、カーセックスへの憧れから車を手に入れようとするが、安物の車ではまったく相手にされない。
それならばと高級車を求め、金を稼ぐために銀行強盗を企てたり、映画俳優を目指したり、埋蔵金を探したりと、思いつくままに行動する。しかし、何をやっても失敗ばかり。
やがて殺し屋と間違われてヤクザの抗争に巻き込まれ、さらには透明人間になるための実験に参加するなど、騒動はますます常識外れの方向へ転がっていく。
一人の男の単純すぎる欲望が、次から次へと脈絡のない事件を引き起こしていく、奇想天外なナンセンス・コメディ。
演出の特徴 ―― テレビのコントを映画にしてしまった
『ソナチネ』であれほど独創的な映画を撮った北野武が、今度はテレビのコントをそのまま映画館に持ち込んでしまった。
本作は、ビートたけしの笑いが全編にわたって炸裂するナンセンス・コメディだ。主人公の単純な性欲から始まり、銀行強盗、映画俳優、ヤクザの抗争、そして透明人間へと、物語はどんどん馬鹿馬鹿しい方向へ暴走していく。
この展開には一本の映画としての一貫性がある。くだらないことを徹底的に追求し、そのくだらなさを際限なく膨らませていく。まさにビートたけしの笑いの真骨頂だ。
しかし、どうしてもテレビのコントを観ているような感覚が拭えない。
ビートたけしの笑いは、テレビという媒体の中で既に完成されていた。常識を無視した発想、理不尽な展開、徹底した馬鹿馬鹿しさ。それらを映画に持ち込んだからといって、自動的に映画としての面白さが生まれるわけではない。
本作にも映画ならではのパロディや視覚的なギャグは盛り込まれている。しかし、全体としてはコントのアイデアそのものが主役になっている印象が強い。
カメラの位置や構図、カット割り、映像のリズムによって笑いを膨らませるというより、既に成立しているギャグを次々と映像に置き換えているように見える。
もちろん、映画だからといって、何もかも映画的な技巧で表現しなければならないわけではない。単純なギャグの連続が、とんでもなく面白い映画になることだってある。
ただ、本作の場合、映画にしたことで何が加わったのかという疑問が残る。
テレビでは許されるという意味ではない。テレビだからこそ成立する笑いがあり、映画だからこそ可能になる表現がある。その違いを十分に生かしきれなかったのではないか。
そもそも、テレビで圧倒的な才能を発揮してきたビートたけしが、わざわざ映画で同じことをする必要があったのだろうか。
個人的には失敗作だと思う。
ただし、ビートたけしの笑いが失敗しているのではない。その笑いを映画にするという試みが、必ずしも成功していないのだ。
『ソナチネ』では、物語の進行さえ無視するような大胆な演出が、映画に強烈な個性を与えていた。ところが本作では、あれほど自由だった映画監督が、むしろテレビで培ってきた自分自身の表現に縛られているようにも見える。
映画監督・北野武と、芸人・ビートたけし。
同じ人間でありながら、その才能が必ずしも同じ方向を向いているわけではない。少なくともこの頃は。
もっとも、映画として成功しようが失敗しようが、本人はそんなことなど知ったことではないのかもしれない。



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