虞美人草(1935年、第一映画)| 巨匠「溝口健二」特集

「溝口健二」特集

夏目漱石の同名小説を溝口健二が映画化した1935年の作品。将来を期待される青年・小野は、恩師の娘で婚約者の小夜子がいながら、裕福な家の娘・藤尾に心を引かれていく。藤尾との結婚がもたらす出世への期待と、自分を育ててくれた恩師への義理の間で、小野の心は揺れ動く。結婚をめぐる若者たちの駆け引きを通して、愛情に入り込む虚栄や野心と、人としての誠実さを描く。

女性の悲哀を描く溝口が、男性を描くとこうなるのか・・・というあまり評価されない作品。大倉千代子の可憐さが際立っているので、やはり女性を描く方が上手い。路上で鉢合わせしてしまった小夜子、小野、藤尾の素早いカットバックがなんとも未完成な具合だった。ラストシーンのフィルムが欠落しているが、原作では男を翻弄した藤尾が自殺している。

特徴

長回しや奥行きのある構図、人物との距離を保った心理表現など、後年の溝口作品を特徴づける演出がすでに認められる。一方で、クローズアップや大胆なカット割りも積極的に用いられ、後年の『残菊物語』などに見られる長回し中心の演出とは異なる特徴を持っている。

特に注目すべきは、人物の表情を直接見せるのではなく、空間内での位置関係や身体の動きによって感情を表現する手法と、通常の映画とは異なる大胆なカメラ位置の切り替えである。

長回しと人物配置による心理表現

溝口らしさが最も明確に認められるのは、小夜子との結婚を断ろうとする小野の意向が、彼女の父・井上孤堂に伝えられる場面である。

娘の将来を託していた小野の裏切りを知り、孤堂は深く落胆する。小夜子もまた、自分の結婚の約束が失われようとしていることを知る。

しかし、溝口はこの悲劇的な場面で、父娘の泣き顔をクローズアップによって強調することはしない。

カメラは室内の一角に固定され、人物を一定の距離から捉えている。小夜子が画面の手前から父のいる奥へと移動し、二人が抱き合うことで、場面の感情が表現される。

ここではカメラの移動も、激しいカット割りも用いられない。人物が画面内を移動することで構図そのものが変化し、感情の高まりが生み出される。

映画研究者のデイヴィッド・ボードウェルは、この場面を溝口独自の演出の重要な例として挙げている。

感情を直接見せるのではなく、人物の動きによって感情を観客に感じ取らせるという手法は、後年の溝口作品にも通じるものである。

大胆なカット割りと撮影角度の変化

後年の溝口作品と比較して、撮影角度を大きく変えるカット割りが目立っている。

一般的な映画の会話場面では、人物の左右の位置関係や視線の方向が観客にとって自然につながるように撮影される。しかし、溝口は同じ会話の中でも、突然カメラを反対側へ移動させたり、俯瞰から低い角度へ切り替えたりしている。

そのため、カットが変わるたびに人物の位置関係が変化し、観客は画面内の空間を捉え直すことになる。

こうした手法は、映画の連続性を重視するハリウッド的な編集とは異なるものである。

映画批評家のタグ・ギャラガーは、本作の男女の会話場面における6つのショットを分析し、カメラ位置が通常の視線のつながりを無視するように変化していることを指摘している。

しかし、それは単なる技術的な未熟さではない。溝口は会話の連続性よりも、一つひとつのショットが持つ造形的な美しさや、人物の関係を表現する構図を優先していると考えられる。

後年の溝口は長回しによって画面内で構図を変化させていくが、本作ではカット割りによって異なる構図を次々と提示する方法も積極的に用いている。

奥行きのある構図と日本家屋の利用

襖や障子、柱などを利用して画面に奥行きをつくり、人物をその中に配置する演出が見られる。

特に室内の場面では、人物を画面中央に置くのではなく、手前と奥、あるいは扉の向こう側に配置することで、心理的な距離が表現されている。

小野が藤尾との関係に悩み、自室へ戻る場面も特徴的である。

カメラは高い位置から小野の後ろ姿を捉え、襖を開ける動作を映し出す。続いて、虞美人草の花とともに置かれた藤尾の写真がクローズアップされる。

しかし、小野は部屋へ入らず、そのまま襖を閉めて立ち去ってしまう。

ここでは小野の心理が台詞によって説明されるのではなく、写真を見ることと、部屋へ入らずに立ち去るという動作によって表現されている。

藤尾への未練と、小夜子との約束に対する義務感。その間で揺れる小野の心理が、わずかな動作とカット割りによって暗示されている。

こうした演出には、人物の感情を空間や物の配置によって表現しようとする、溝口独自の映画美学が認められる。

小道具を利用した象徴的な演出

藤尾が所有する金時計が、登場人物たちの関係を結びつける重要な小道具となっている。

この時計は、藤尾の父から受け継がれたものであり、財産や家柄、結婚の約束を象徴している。

時計を誰が所有し、誰に渡そうとするのかという変化が、男女の関係や利害の変化と結びついている。

溝口は小道具を単なる装飾として利用するのではなく、物語の展開を視覚的に示すために用いている。

特に、時計という物体には、愛情と財産、社会的な地位が複雑に結びついている。

登場人物たちが本当に求めているものは愛情なのか、それとも経済的な安定や社会的な成功なのか。そうした疑問が、時計をめぐる人間関係によって浮かび上がる。

このように物の移動によって人物の関係を描く手法は、後年の溝口作品にも見られる。ニューヨークの映像博物館も、本作における時計の移動を物語構成上の特徴として評価している。

二人の女性の対比と溝口の女性観

原作の『虞美人草』では、気位が高く、男性たちを翻弄する藤尾が中心的な女性として描かれている。

しかし、溝口の映画では、小野との結婚を約束していた小夜子の存在が大きく取り上げられている。

藤尾は裕福な家庭に育ち、自分の欲望に従って行動する女性である。一方、小夜子は父への思いや小野との約束を大切にし、自分の感情を抑えながら生きている。

この二人の対比には、近代的な価値観と伝統的な道徳観の対立が認められる。

ただし、藤尾が自由であるのに対し、小夜子が単純に古い価値観の犠牲者として描かれているわけではない。むしろ本作では、小夜子の誠実さや献身が強く肯定されている。

溝口は小夜子の悲しみを大げさに描くことなく、父との関係や身体の動作によって静かに表現している。

原作では藤尾に重点が置かれているのに対し、映画では小夜子が重要な位置を占めるようになったことは、国立映画アーカイブによる作品解説でも指摘されている。

女性の献身や、男性の身勝手な行動によって傷つけられる女性への視線には、溝口が繰り返し描いてきた主題が認められる。

ただし、翌年の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』に見られるような、女性を抑圧する社会制度への直接的な批判は、本作ではそれほど明確ではない。

上流階級と庶民の生活を対比させた演出

明治時代の上流階級の生活と、伝統的な価値観を持つ人々の暮らしが対比されている。

藤尾の周囲には財産や結婚をめぐる駆け引きがあり、近代的な教育や社会的地位が重要な意味を持っている。

一方、小夜子と父の孤堂が暮らす世界には、恩義や約束、人と人との情愛を重んじる価値観が残されている。

溝口はこうした違いを、人物の言葉遣いや振る舞い、住居の構造、衣装などによって描き分けている。

興味深いのは、上流階級の人物たちの華やかな生活よりも、小夜子と父のような人々の感情を描く場面に、溝口らしい演出が強く表れていることである。

松竹の作品解説でも、都会的な上流階級の人物描写以上に、昔気質の庶民の描写に溝口の力量が発揮されていると評価されている。

社会的な地位の高さと人間的な誠実さが必ずしも一致しないという視点には、後年の『マリヤのお雪』や『浪華悲歌』にも通じるものがある。

『折鶴お千』『マリヤのお雪』との演出上の違い

同じ1935年に製作された『折鶴お千』『マリヤのお雪』と比較すると、本作の特徴がより明確になる。

『折鶴お千』では、複雑な回想構成や激しいカメラワーク、二重露光など、サイレント映画特有の実験的な映像表現が目立っていた。

『マリヤのお雪』では、陰影の強い照明や奥行きのある構図を利用して、人物の心理や階級的な対立を表現していた。

これに対して『虞美人草』では、カメラの動きそのものを強調するよりも、人物の配置や身体の動作、視点の切り替えによって感情を表現する場面が印象的である。

特に小夜子と父が抱き合う場面では、固定されたカメラの前で人物が動くだけで、悲しみが伝わってくる。

こうした演出は、後年の『残菊物語』で成熟する、感情を直接的に強調しない溝口の映画美学を先取りしている。

一方で、大胆なカット割りやクローズアップも併用されており、長回しを中心とする演出が完全に確立された段階ではないこともわかる。

総評

溝口健二が長回しや奥行きのある構図を中心とする独自の映画表現を確立していく過程に位置する作品である。

特に、小夜子と父が悲しみを分かち合う場面では、カメラを固定したまま人物の位置関係を変化させることで、感情を表現している。人物の表情を直接強調するのではなく、空間の中での身体の動きによって心理を描き出す手法には、後年の溝口作品へとつながる特徴が認められる。

一方で、通常の視線のつながりを無視するような大胆なカット割りや、クローズアップによる心理表現も積極的に用いられており、演出には多様な技法が混在している。

また、原作では藤尾が中心的な存在であったのに対し、映画では小夜子の献身や苦悩に重点が置かれている。ここには、男性の裏切りによって傷つけられる女性への、溝口らしい視線が認められる。

本作は、華麗な移動撮影や長回しそのものよりも、固定された画面の中で人物を動かし、その感情を表現する演出に特徴がある。 女性の苦悩を過度に感傷的に描かず、人物の動作や距離によって静かに表現する手法は、後年の『残菊物語』などでさらに洗練されていくことになる。

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