平安時代。正義を重んじる父・平正氏が任地を追われたため、妻の玉木と子どもたちの厨子王、安寿は離ればなれの生活を送ることになる。やがて父を訪ねて旅に出た母子は人買いに騙され、玉木は佐渡へ、厨子王と安寿は丹後の荘園を支配する山椒大夫のもとへ売られてしまう。
過酷な奴隷生活の中で成長した二人は、父から教えられた「人は慈悲の心を持たなければ人ではない」という言葉を胸に生き続ける。安寿の犠牲によって逃げ出した厨子王は、やがて身分を取り戻し、山椒大夫の荘園で虐げられていた人々を解放する。そして最後に、長い年月を経て母を捜し求める。家族の離散と再会、権力による人間の支配、そして慈悲と尊厳を描いた溝口健二の代表作。
超絶残酷な古い説話があり、森鴎外がそれをまろやかにした「山椒太夫」を原作としている。溝口映画の常連となっていた田中絹代は主人公の母親役で、ラストシーンの親子再会場面から海へ移すカメラワークの美しさよ・・・ゴダールが真似をするほどだった。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。
長回しと移動撮影、奥行きのある構図、そして自然風景を利用した心理表現によって、人間の苦しみと救済を描いた。撮影監督は宮川一夫。溝口作品のなかでも、映像の美しさと悲劇的な物語が高度に結びついた作品といえる。
長回しと移動撮影による空間表現
溝口の特徴である長回しと流動的なカメラワークが、本作でも効果的に用いられている。人物の動きに合わせてカメラが横方向に移動し、あるいはクレーンによって視点を変えることで、ひとつのショットのなかに複数の出来事を収めている。特に印象的なのは、母と子が人買いによって引き離される場面である。舟と岸辺に分かれた人物たちの距離が、画面のなかで次第に広がっていく。カメラはその隔たりを空間的に示し、家族の分離という悲劇を視覚化する。
感情をクローズアップによって強調するのではなく、人物同士の距離や位置関係から観客に感じ取らせる演出である。カメラを人物に寄せないのは、単にリアリティを追求しているからではないと思う。むしろ、観客の感情を直接操作しないための演出という側面が強い。
自然風景と人物の関係
本作では、森、湖、海などの自然風景が重要な役割を果たしている。
宮川一夫の撮影によるモノクロームの映像は、水墨画を思わせる濃淡と奥行きを備えている。人物はしばしば広大な風景のなかに小さく配置され、人間の存在の儚さが際立つ。興味深いのは、自然が必ずしも安らぎの象徴として描かれていないことだ。美しい風景のなかで、人々は引き離され、自由を奪われ、命を失っていく。
自然の美しさと人間社会の残酷さとの対比が、作品全体に独特の悲劇性を与えている。
安寿の入水場面における静的な演出
本作の演出を象徴するのが、安寿が湖に身を沈める場面である。それまでの流動的なカメラワークとは対照的に、この場面では固定されたカメラが用いられる。木々の間から見える水辺に安寿が現れ、静かに水のなかへ歩いていく。カメラは彼女に接近せず、一定の距離を保ったまま、その姿を捉える。そして実際に水中へ消える瞬間は直接映されない。別の人物が祈る姿を挟み、再び湖面が映し出されると、そこには広がる波紋だけが残されている。
死という決定的な出来事を直接描かず、人物が消えた後の風景によって表現する。感情を強く誘導することなく、むしろ抑制することで悲しみを深めている。この場面は、溝口の映像表現の到達点のひとつといえる。
母の歌による時間と空間の結びつき
音響面で重要なのが、田中絹代演じる母・玉木が、離れ離れになった子どもたちの名を呼ぶ歌である。この歌は物語のなかで繰り返され、遠く離れた母と子を結びつける役割を果たしている。安寿の入水場面にも母の歌が重ねられ、画面には存在しない母の記憶が呼び起こされる。
映像では隔てられている人物たちが、音によって結びつく。長い年月と地理的な距離を超えて、母と子の関係が持続していることを示す演出である。
ラストシーンのカメラワーク
厨子王と母が再会する終盤では、それまで抑制されてきた感情が一気に表面化する。しかし、溝口は母子の抱擁をクローズアップだけで完結させない。再会の後、カメラは二人のいる場所から離れ、海辺の風景へと視線を移していく。物語の中心であった人物たちは広い世界の一部となり、画面には海と岸辺の風景が残される。
母子の再会という個人的な出来事から、さらに大きな世界へと視点を広げることで、悲劇を普遍的な人間の営みとして捉え直しているようにも見える。
総評
『残菊物語』や『近松物語』にも共通する溝口の長回しと移動撮影は、本作では自然風景と一体化し、さらに詩的な表現へと発展している。なかでも安寿の入水場面は、映像が何を見せ、何を見せないかという映画演出の本質を示している。



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