『ふるさとの歌』は、溝口健二の現存する作品の中で最も古い映画である。文部省が日活に製作を委託した教育映画で、都会への進学を望みながらも、貧しい家庭の事情から農村に残る青年・直太郎を主人公に、郷土への愛情や農村で生きることの意義を描いている。
家庭の事情で都会に進学できない主人公が、東京から帰ってきた友人との軋轢を乗り越え、立派な農家になることを目指す。というストーリーだが、子供はなるべく都会に来ないで田舎で農業やってましょう、というプロパガンダ映画だろう。
特徴
後年の溝口作品を特徴づける長回しや流麗な移動撮影とは大きく異なり、比較的短いショットを組み合わせたモンタージュやクローズアップ、切り返しによる編集が中心となっている。また、後年の代表作に見られる女性の犠牲という主題よりも、農村と都市の対立、教育機会の格差、郷土愛といった社会的な問題が前面に出ている。
本作の重要性は、完成された溝口の映画美学が認められることよりも、その映画美学が確立される以前に、どのような映像表現を試みていたのかを知ることができる点にある。
モンタージュとクローズアップによる演出
後年の溝口作品に見られるワンシーン・ワンショットの長回しではなく、複数のショットを組み合わせる編集が積極的に用いられている。
特に人物同士の会話や対立では、全体の状況を示すショットから人物の表情を捉えるクローズアップへと切り替え、さらに相手の反応を見せるという、当時のハリウッド映画にも共通する連続性編集が認められる。
さらにソ連映画を彷彿とさせるモンタージュを組み合わせるなど、当時の前衛映画に通じる大胆な映像表現が共存している。
こうした演出は、カメラの位置をあまり変えず、人物の動作や空間の変化によって感情を表現する後年の溝口とは対照的である。
乗り物を利用した田園風景の演出
農村を走る列車や車など、乗り物と周囲の風景を組み合わせた撮影が特徴的である。こうした場面では、乗り物の進行によって風景が次々と変化し、画面そのものに運動感が生み出される。
後年の溝口は、カメラを横方向へ移動させながら人物と周囲の空間を連続的に描くようになる。しかし、本作の乗り物を利用した映像では、人物の心理を表現することよりも、移動によって変化する風景の視覚的な魅力が前面に出ている。
農村の風景は、郷土の美しさを強調する役割を果たしている一方、近代的な交通機関の存在によって、農村と都市が結びついていることも示している。
こうした風景の描き方は、後年の溝口に特徴的な長回しによる空間表現とは異なるものの、映像の中で人間と環境を結びつけようとする初期の試みとして興味深い。
農村と都市の対比による社会的な表現
、都会で教育を受ける裕福な青年たちと、経済的な事情から農村に残らざるを得ない直太郎が対照的に描かれている。
直太郎は優秀な成績を収めながらも、家庭の貧しさによって進学を諦め、馬車を引いて働いている。一方、東京へ進学した友人たちは、都会で身につけた服装や娯楽を農村へ持ち込む。
この対比によって、教育を受ける機会が家庭の経済力に左右されるという、当時の階級格差が浮かび上がる。
しかし、本作ではこうした格差が社会制度への批判として展開されるわけではない。むしろ、都会で学ぶことよりも、故郷で働き、地域に貢献することの価値が強調されている。
この点は、後年の『東京行進曲』や『浪華悲歌』とは大きく異なる。
後年の溝口は、社会的な不平等によって人生を左右される人間の悲劇を描くようになる。しかし本作では、そうした不平等が存在することを示しながらも、最終的には郷土への献身という道徳的な価値観によって物語をまとめている。
教育映画としての教訓的な演出
文部省の依頼によって製作された教育映画であり、その目的は農村の青年たちに郷土への愛情や勤労の精神を伝えることにあった。
物語の終盤では、直太郎が人命救助によって進学の機会を得る。しかし、彼は都会に出ることよりも、故郷に残って働くことを選択する。
この結末では、主人公の葛藤が郷土愛という明確な価値観によって解決される。後年の溝口作品に見られるような、解決されない社会的矛盾や人間の複雑な心理よりも、観客に伝えるべき教訓が優先されている。
また、都会の生活を享楽的なものとして描き、農村で働くことを健全で価値ある行為として肯定している点には、当時の教育政策や国家的な価値観が反映されている。
ただし、こうした教訓的な内容が、そのまま溝口自身の思想を表していると考えることはできない。文部省からの依頼作品という製作条件を考慮する必要がある。
本作では、人間の内面的な矛盾を追究する溝口の後年の姿勢よりも、教育映画としての目的が物語や人物の描き方を規定している。
女性を中心としない人物描写
溝口作品としては珍しく、男性である直太郎を中心に物語が進行する。
後年の『瀧の白糸』『折鶴お千』『残菊物語』などでは、男性の成功を支える女性の献身や犠牲が物語の中心となる。しかし、本作では母親や妹などの女性たちは登場するものの、独立した葛藤を持つ中心人物として描かれてはいない。
物語を動かしているのは、直太郎の進学への希望と、家庭や郷土に対する責任との葛藤である。
このことから、本作は主題の面でも映像表現の面でも、後年の溝口作品とはかなり異なる位置にあるといえる。
『東京行進曲』や後年の作品との違い
1929年の『東京行進曲』でも、モンタージュや比較的短いショットによる編集が積極的に用いられている。しかし、両作品の映像表現が目指す方向には違いがある。
『ふるさとの歌』では、編集は主として物語の状況や人物の感情を明確に伝えるために使われている。
一方、『東京行進曲』では、都市の風景をリズミカルに組み合わせたり、裕福な人々と貧しい人々の生活を対比したりすることで、編集そのものが社会的な意味を生み出している。
さらに1930年代半ば以降になると、溝口はカット割りに頼らず、一つのショットの内部で人物を動かし、カメラを移動させながら人間関係を表現する方向へ進んでいく。
この変化を考えると、『ふるさとの歌』は、溝口が当時の標準的な映画文法を習得し、それを自在に使いこなしていたことを示す初期作品として位置づけられる。
総評
『ふるさとの歌』は、後年の溝口作品を特徴づける長回しや移動撮影、奥行きのある構図が確立される以前の作品である。
比較的短いショットを組み合わせた編集やクローズアップ、人物の視線による切り返しなどが中心であり、ハリウッド的な連続性編集と当時の前衛映画に通じる映像表現が共存している。
一方、田園風景を捉えた撮影には独特の視覚的な魅力があり、単なる教育映画にとどまらない演出上の工夫も認められる。
しかし、物語の中心にあるのは郷土愛や勤労の精神を称揚する教訓的な価値観であり、社会制度に翻弄される女性の悲劇を描いた後年の作品とは、主題の面でも大きく異なる。
本作は、完成された溝口らしさを見いだす作品というよりも、後年の独自の映画美学が生まれる以前の溝口を知ることのできる貴重な作品である。 特に、モンタージュやクローズアップを積極的に使っていた監督が、やがてカットを抑制し、長回しによって人物と空間を一体的に描くようになったという変化を考えるうえで、重要な位置を占めている。



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