世界のメロディー(1929年) | ヴァルター・ルットマン特集

ヴァルター・ルットマン特集

世界一周しているのに、順番に旅をしない

本作は、世界各地で撮影された映像をつなぎ合わせたドキュメンタリーである。

しかし、普通の旅行映画とはずいぶん違う。

例えば、インドの街並みが映ったかと思えば、次にはロンドンの風景が登場する。異なる国の寺院や宗教建築が、まるで同じ場所に存在しているかのように並べられる。

地理的な順序など、ほとんど関係ないのだ。

普通の旅行映画なら、まずヨーロッパを出発し、アジアへ向かい、次の土地へ移動するという順番になるだろう。

しかしルットマンは、そんなことには興味がないらしい。

彼が注目しているのは、国や地域ではなく、形や動きの共通性である。

世界各地の建築物を比較し、宗教的な儀式を並べ、人々の仕事や踊りを次々と見せていく。

つまり、地理的な移動ではなく、映像同士の関係によって映画を進めているのである。

これは、かなり大胆な編集方法だ。

実際には何千キロも離れた場所で撮影された映像が、カットをつなぐだけで、隣り合った場所のように見えてしまう。

映画の編集によって、現実の距離が消滅しているわけだ。

考えてみれば、これは映画にしかできないことである。

地図の上では遠く離れている国々も、フィルムの上では数センチしか離れていない。

ルットマンは、その性質を積極的に利用しているのである。

監督なのに撮影していない

実は、本作の大部分をルットマン自身が撮影したわけではない。

撮影は、ハンブルク・アメリカ汽船会社の船を利用した取材旅行によって行われた。

カメラマンとして参加したのは、ライマール・クンツェ、ヴィルヘルム・レーネ、ルドルフ・ラートマン、パウル・ホルツキらである。

ルットマン自身は、その撮影旅行には同行していない。

つまり、彼の仕事の中心は編集だったのである。

しかも、集められたフィルムは約1万6000メートルにも及んだという。

そこから必要な映像を選び出し、まったく異なる場所で撮影された素材を組み合わせて、一つの作品に仕上げている。

これが面白い。

一般的には、映画監督というと、撮影現場でカメラの位置を決め、俳優に演技を指示する人物を想像する。

しかし本作では、監督の仕事がほとんど編集室に集中している。

いってみれば、撮影された世界の断片を材料にして、別の世界を作り上げているのである。

しかも、それぞれの映像を撮影したカメラマンは異なる。

当然、カメラの位置やレンズの使い方、構図の考え方も違っていたはずだ。

そのような素材を、一つの映画として成立させなければならない。

ルットマンがどれほど編集に頼っていたのかが、よくわかる。

本作において、監督の個性が最も強く表れているのは、撮影よりもモンタージュなのだ。

似ているものをつなぐ編集

本作では、異なる映像を、形や動きの類似性によって結びつけている。

例えば、世界各地の宗教建築を並べる場面では、国や文化が異なっていても、建築物としての共通性が強調される。

また、踊りの場面では、異なる地域の人々が、似たような身体の動きを繰り返している。

こうした編集は、現在ではマッチカットやグラフィック・マッチと呼ばれる方法にも通じている。

ただし、本作の場合は少し違う。

同じ形をしたものをつなぐだけでなく、異なる文化の中に共通する行為を見つけようとしているのである。

例えば、北米先住民の踊りとバイエルン地方の踊りをつなぐ。

文化的な背景はまったく違う。しかし、身体を動かし、集団で踊るという行為には共通性がある。

ルットマンは、そこに一つのリズムを見いだしている。

さらに面白いのは、母親と子供を写した映像と、聖母子像を結びつけるような編集である。

生きている人間と宗教的な彫像が、同じ構図を持つものとして並べられる。

ここでは、撮影された対象の意味よりも、画面に現れた形態が重要になっている。

写真でも、まったく違う場所で撮影した二枚を並べると、新しい意味が生まれることがある。

本作は、それを映画全体の構造にまで発展させているのである。

映像の中にあるリズムと、編集で作るリズム

ルットマンの映画を考えるうえで重要なのは、リズムという概念である。

ただし、映画のリズムには二種類ある。

一つは、画面の中で物体や人物が動くことによって生まれるリズム。

もう一つは、カットを切り替えることによって生まれるリズムである。

例えば、人々が円を描くように踊る場面では、身体の動きそのものが一定のリズムを持っている。

そこへ別の地域の踊りをつなげば、今度は編集によって新しいリズムが生まれる。

本作では、この二つが組み合わされている。

踊る人物の数が増え、身体の動きが大きくなり、編集の速度も変化していく。

また、横方向の動きから縦方向の動きへ切り替えることで、同じリズムの中にも変化を生み出している。

単純にカットを短くすれば、テンポがよくなるというものではない。

画面の中で何が動いているのか、次のカットでその動きがどのように変化するのか。

そうしたことまで考えながら、映像が並べられているのである。

これは『伯林―大都会交響楽』にも見られた方法だが、本作では、都市の機械的な動きだけでなく、人間の身体や自然の運動にまで広げられている。

映像そのものを、音楽のように構成しようとしているわけだ。

汽笛を楽器として使う

本作は、ドイツにおける初期の本格的なトーキー映画としても知られている。

しかし、ルットマンは、新しく使えるようになった音声を、人物に台詞を喋らせるために使おうとはしなかった。

彼が考えていたのは、もっと変わった使い方である。

例えば、冒頭の船が出航する場面。

ヴォルフガング・ツェラーによる音楽が流れているところへ、船の汽笛が鳴り響く。

普通なら、汽笛は船が出航することを知らせる効果音である。

しかし本作では、その汽笛が音楽の一部として扱われている。

なんと、オーケストラの和音を締めくくる音の代わりに、汽笛を鳴らしているのである。

これは面白い。

つまり、楽器の音と、実際の機械が発する音を、同じものとして扱っているわけだ。

さらに、音楽の中には、汽笛の響きを模倣したファゴットの音まで登場する。

そうなると、どちらが楽器で、どちらが汽笛なのか、わからなくなってくる。

普通の映画では、音楽と効果音は別の役割を持っている。

しかしルットマンは、その境界をなくそうとしている。

機械の音も音楽になり得る。

現在では珍しくない発想かもしれないが、1929年の段階でこれを映画に取り入れていたというのは、なかなか驚くべきことである。

工場の音だけで音楽を作る

本作の音響で、特に注目したいのが労働の場面である。

ハンマーで金属を叩く音、のこぎりで材料を切る音、機械が動く音、作業員の声。

こうした音が次々とつながれていく。

しかも、この場面では伴奏音楽が後退し、実際の物体が発する音が中心になる。

何とも変わった音楽である。

ハンマーを叩く音には、一定の間隔がある。

のこぎりの音にも、繰り返される動きがある。

機械が回転すれば、同じ音が規則的に続く。

つまり、仕事そのものがリズムを持っているのである。

ルットマンは、そのリズムを編集によって組み合わせている。

ここでは音楽を使って映像を盛り上げるのではなく、映像に映っているものの音によって、音楽のような構造を作っているわけだ。

ただし、重要なのは、現場で聞こえる音をそのまま流しているわけではないということである。

さまざまな音を選択し、順番を決め、テンポを調整している。

現実の騒音を、音楽として再構成しているのである。

こうした発想は、後のミュジーク・コンクレートや電子音楽にも通じるものがある。

もちろん、本作がそれらの音楽を直接生み出したというわけではない。

しかし、楽器ではないものの音を素材として編集するという点で、非常に先駆的な試みだったといえる。

現地で録音したように聞こえるけれど

本作は世界各地の映像と音を組み合わせているため、一見すると、現地で撮影と録音を同時に行ったドキュメンタリーのように感じられる。

しかし、実際にはそう単純ではない。

当時の録音機材は大きく、扱いも難しかった。

現在のように、小型のレコーダーを持ち歩いて、どこでも自由に録音できる時代ではなかったのである。

本作でも、音の多くは撮影後にスタジオで加えられている。

つまり、画面に映っている音が、その場所で実際に録音されたものとは限らない。

例えば、機械が動いている映像に、その動きに合った機械音を加えれば、観客は当然、その機械が音を発していると考える。

しかし、映像と音が別々の場所で記録されていても、そのように見せることはできる。

これは、現在の映画でも普通に行われていることである。

足音や衣擦れの音を、撮影後に録音して加えるフォーリーなども、基本的には同じ発想だ。

本作は、そのような音響制作の可能性を、トーキーが普及し始めたばかりの時代に試しているのである。

つまり、世界の音を記録した映画というより、世界の音を作り直した映画といった方が、実態に近いのかもしれない。

トーキーなのに、ほとんど喋らない

1929年といえば、映画が無声映画からトーキーへと移行していた時代である。

それまでの映画では、映像に伴奏音楽を付けることはできても、画面と完全に同期した音声を安定して再生することは、まだ一般的ではなかった。

そこへトーキーが登場した。

当然、映画会社は俳優に台詞を喋らせたくなる。

しかしルットマンは、そこにあまり興味を示していない。

むしろ、人物の言葉に頼らず、映像と音だけで映画を成立させようとしている。

考えてみれば、ずいぶんひねくれた使い方である。

せっかく喋れるようになったのに、喋らせないのだから。

しかし、ここにはルットマンらしい考え方がある。

彼にとって映画は、物語を説明するための道具ではなく、映像そのものによって何かを表現する芸術だった。

そして、音が使えるようになったことで、その表現方法がさらに広がったのである。

ルットマンは1929年に発表した文章でも、音そのものを独立した芸術表現として扱う可能性について論じている。

つまり、トーキーを単なる「喋る映画」として捉えていなかったわけだ。

ここに、彼の先進性がある。

35mmフィルムなのに、画面が妙に縦長

撮影技術についても、少し変わったところがある。

本作のオリジナル版は35mmフィルムで、画面比率は1.19対1と記録されている。

現在の映画では、1.85対1や2.39対1といった横長の画面が一般的である。

しかし、本作の画面は、それらに比べるとかなり正方形に近い。

これは、初期のトーキー映画に特有の事情と関係している。

フィルムに光学式の音声トラックを記録するため、画面として使用できる幅が制限されたのである。

映画のフィルムには、映像だけでなく音も記録しなければならない。

そのため、従来の無声映画とは異なる画面寸法が生まれたわけだ。

本作では、この初期トーキー特有の画面が使用されている。

ただし、1.19対1という画面比率を、ルットマンが純粋に芸術的な理由から選んだと考えるのは適切ではない。

当時の録音・上映技術による制約でもあったからだ。

もっとも、比較的縦方向に余裕のある画面は、建築物や人物の全身を見せる構図とも相性がよい。

世界各地の建築物や踊りを見せる本作では、結果として、その画面形状が効果的に働いている部分もあるだろう。

映画の画面比率は、監督の好みだけで決まるものではない。

使用する機材や記録方式によっても変化する。

本作は、そうした映画技術の歴史を考えるうえでも興味深い。

『伯林―大都会交響楽』との違い

ルットマンは1927年に『伯林―大都会交響楽』を制作している。

この作品では、一日のベルリンの様子を、朝から夜へと時間の流れに沿って構成していた。

列車、工場、通勤する人々、街を行き交う自動車。

そうした都市の動きを、リズミカルな編集によって見せている。

それに対して本作では、舞台を世界全体へと広げている。

しかし、ここで問題が生まれる。

『伯林―大都会交響楽』には、ベルリンという共通の場所があった。

異なる人物や風景が登場しても、それらは一つの都市の中で起こっている出来事として結びついていたのである。

ところが、本作にはそのような場所がない。

ヨーロッパ、アジア、北アフリカなど、まったく異なる地域の映像が次々と登場する。

そのため、映像をつなぎ合わせるには、形や動きの共通性に頼らざるを得なくなる。

例えば、踊る人々を並べれば、世界中の人間が同じように踊っているように見える。

しかし、それぞれの踊りが持つ意味や文化的な背景は、ほとんど説明されない。

つまり、世界を広く描こうとしたことで、かえって一つひとつの場所の個性が失われているのである。

映像の構成としては興味深い。

しかし、映画としてのまとまりという点では、『伯林―大都会交響楽』の方が強かったのではないだろうか。

世界の文化を、似たものとして並べてしまう

本作では、世界各地の文化が共通するものとして描かれている。

宗教儀式、踊り、労働、娯楽、戦争。

どこの国にも似たようなものがある、というわけだ。

確かに、そのとおりなのだろう。

しかし、似ているものばかり集めれば、どんな文化でも似ているように見えてしまうのではないだろうか。

例えば、異なる国の人々が踊っている映像を集めれば、世界中の人間が踊っているという共通性を示すことができる。

しかし、その踊りが宗教儀式なのか、娯楽なのか、社会的な行事なのかによって、意味は大きく異なる。

それをすべて踊りという一つのカテゴリーにまとめてしまえば、文化の違いが見えなくなってしまう。

これは、編集という技術が持つ問題でもある。

映像を並べることで、新しい意味を生み出すことはできる。

しかし、その新しい意味が、撮影された対象の本来の意味と一致しているとは限らない。

本作では、世界各地の映像を組み合わせることによって、人類に共通するリズムを表現しようとしている。

ただ、その編集によって、世界が少し単純化されすぎているようにも感じられる。

映像の類似性を見つけることと、人間の文化を理解することは、まったく別の問題なのだ。

実験映画なのに、実は船会社の宣伝映画

もう一つ面白いのは、本作の制作背景である。

本作は、ハンブルク・アメリカ汽船会社、いわゆるHAPAGの委嘱によって制作された。

つまり、もともとは船会社の宣伝という目的があったわけだ。

それなのに、完成した映画は、世界各地の人々の生活や文化を、実験的なモンタージュによって見せる作品になっている。

ずいぶん変わった宣伝映画である。

もっとも、世界各地の魅力を紹介することは、船会社にとって都合がよい。

船に乗れば、こんなにもさまざまな世界を見ることができる。

そうしたイメージを観客に与えることは、間接的な宣伝になるからだ。

しかしルットマンは、その素材を単なる観光案内として使わなかった。

地理的な順番を無視し、世界各地の映像を組み合わせ、音楽のように編集している。

ここには、商業的な目的と芸術的な実験が同居している。

ただし、どれほど前衛的な映像を使っていても、世界を美しく見せるという点では、船会社の意図とそれほど矛盾していない。

むしろ、実験的な編集によって、世界そのものが魅力的な見世物になっているのである。

考えてみれば、現代の企業広告にも通じるものがある。

商品を直接宣伝するのではなく、美しい映像や音楽によって、企業の持つ世界観を表現する。

本作は、そのような広告表現の先駆けとも考えられる。

当時から批判されていた

本作は、ドイツ初期の本格的なトーキーとして注目された。

しかし、公開当時から高く評価されていたわけではない。

映画批評家のジークフリート・クラカウアーは、本作に対してかなり批判的だった。

世界中の文化を音や映像によって結びつけようとするあまり、一つひとつの文化が持つ固有の意味を失っている、という趣旨の批判である。

これは、なかなか鋭い。

また、当時の批評には、音響についての不満も見られる。

汽笛や機械音の使い方は面白いものの、音楽の録音状態は決してよくなく、音の効果も限定的だったという。

確かに、現在の音響技術と比較すれば、1929年のトーキーには大きな制約がある。

しかし、当時の批評家たちも、単に新しい技術が使われているというだけでは、満足していなかったようだ。

音が出るから優れた映画になるわけではない。

映像を素早くつなげば、新しい芸術になるわけでもない。

重要なのは、それらの技術によって何を表現したのかということである。

これは、現在の映画にもそのまま当てはまる話だろう。

最新のカメラを使い、膨大なVFXを加え、立体音響を採用したところで、それだけで映画が面白くなるわけではない。

技術的な革新と芸術的な完成度は、別の問題なのである。

音だけの映画へとつながる実験

ルットマンは翌1930年、『ウィークエンド』(Wochenende)という作品を制作している。

こちらは、何と映像がない。

音だけで構成された作品なのである。

街の騒音、人々の声、機械の音、音楽などを録音し、それらを編集によって組み合わせている。

現在の感覚でいえば、サウンドアートやミュジーク・コンクレートに近い作品だろう。

映画なのに、映像がない。

ずいぶん変わったことを考えるものである。

しかし、『世界のメロディー』を観ると、その発想も理解できる。

ルットマンは、すでに本作の段階で、音そのものを編集の材料として扱っていた。

例えば、労働の場面では、機械音や作業音を組み合わせることで、音楽のようなリズムを作り出している。

つまり、映像がなくても、音だけで作品を成立させられるのではないかという可能性が、すでに見えていたのである。

『ウィークエンド』は、その実験をさらに進めた作品といえる。

考えてみれば、ルットマンは一貫している。

最初は抽象的な形を動かし、次に都市の風景を編集し、さらに世界各地の映像と音を組み合わせ、最後には音だけを編集するようになる。

興味の中心にあったのは、物語ではなく、時間とリズムだったのだろう。

ルットマンは何を発見したのか

『世界のメロディー』を現在の映画として観ると、正直なところ、それほど驚くような映像が続くわけではない。

世界各地の映像を並べるという方法も、現在では珍しくない。

音楽に合わせて映像を切り替えたり、機械音をリズムとして使ったりする表現も、すでに一般的になっている。

しかし、これが1929年の映画だと考えると、話は変わってくる。

そもそも、映像と音を自由に組み合わせること自体が、新しい技術だった時代である。

その段階でルットマンは、音を単なる説明のために使うのではなく、映像と同じように編集できる素材として捉えていた。

ここが重要なのだろう。

映像を撮影することと、映像を編集することは違う。

音を録音することと、音を編集することも違う。

記録されたものを、どのような順番で、どのような長さで組み合わせるのか。

その選択によって、まったく別の意味が生まれる。

ルットマンは、そうした編集の可能性を追求していたのである。

ただし、本作が『伯林―大都会交響楽』を超える作品になっているかといえば、少し疑問も残る。

世界を扱おうとしたことで、映画の対象は大きく広がった。しかし、その分、一つひとつの映像が持つ意味は薄くなっている。

世界各地の人々が、同じように働き、踊り、祈り、生活している。

そのような共通性を示すことはできる。

しかし、それだけで世界を理解したことにはならない。

本作の面白さは、世界について何か深い真実を示したことよりも、映像と音を組み合わせる方法そのものを実験したことにあるのではないだろうか。

汽笛を楽器として使い、機械音を音楽に変え、異なる国の映像を形や動きによって結びつける。

そうした試みには、現在でも学ぶべきところがある。

もっとも、技術的に先駆的だからといって、すべてが成功しているわけではない。

むしろ、新しい表現を試みたからこそ、うまくいっていない部分もはっきり見えてくる。

しかし、それでよいのだろう。

映画の歴史を変えてきたのは、最初から完成された作品ばかりではない。

誰もやっていないことを試し、失敗し、ときには思いがけない表現を発見する。

ルットマンの映画には、そうした実験の面白さがある。

『世界のメロディー』は、世界を描いた映画というより、世界を映像と音によって組み立て直そうとした映画なのだ。

そして、その作業こそが、ルットマンにとっての映画だったのだろう。

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