『鋼鉄』(原題:Acciaio、1933年)は、ヴァルター・ルットマンがイタリアで撮影した劇映画。撮影監督はマッシモ・テルツァーノとドメニコ・スカーラ、音楽はジャン・フランチェスコ・マリピエロが担当している。
これまでの抽象映画や都市交響曲とは違い、今度は俳優を使って物語を描いている。ただし、そこはルットマン。人間のドラマを撮るはずが、いつの間にか製鉄所の機械ばかり撮っている。 この妙な偏りが、本作の最大の特徴だと思う。
主役は人間じゃなくて製鉄所
本作は一応、男女の恋愛と労働者同士の対立を描いた劇映画である。
しかし、どう見ても製鉄所の方が主役なのだ。
巨大な炉、真っ赤に熱せられた鉄、回転する機械、火花を散らす溶鋼。人間のドラマよりも、そうしたものを撮影しているときの方が、ルットマンは生き生きしているように見える。
実際、撮影はイタリアのテルニにある製鉄所で行われた。
セットで再現した工場ではない。本当に稼働している製鉄所へカメラを持ち込み、実際の作業を撮影しているのである。
しかも、溶けた鉄が流れる場所のかなり近くまでカメラを寄せていたらしい。撮影スタッフの安全が心配されるほどだったという。
ずいぶん無茶なことをする。
しかし、そのおかげで、工場内部の映像には相当な迫力がある。
現在なら小型のデジタルカメラを設置することもできるだろうが、1932年の撮影である。当時のフィルムカメラを使用し、高温の金属が流れるすぐそばで撮影するのだから、簡単な仕事ではなかったはずだ。
その結果、人物の演技よりも、製鉄所の内部を撮影した映像の方が強い印象を残す。
劇映画としては少し困った話だが、ルットマンの映画としては、むしろ当然のことなのかもしれない。
製鉄所を抽象映画にしてしまう
ルットマンは、もともと抽象アニメーションを制作していた監督である。
『Lichtspiel: Opus I』では、円や曲線、幾何学的な形態を動かし、それらを音楽のように構成していた。
その感覚は、本作にも残っている。
例えば、巨大な機械の一部分だけをクローズアップで撮影する。
そうすると、画面に映っているものが何なのか、よくわからなくなる。
巨大な円形の部品が回転していたり、金属の塊が上下に動いていたりする。
製鉄所の機械なのだが、そこから工業製品としての意味が失われ、形と動きだけが目立ってくる。
ここが面白い。
普通の記録映画なら、その機械が何をするものなのかを説明するだろう。
しかしルットマンは、機械の機能よりも、形態や運動そのものに興味があるように見える。
巨大な装置を撮影しているのに、出来上がった映像は抽象映画に近づいていく。
実際の機械を撮影することで、かつて自分が描いていた抽象的な形態を発見したわけだ。
考えてみれば、これは面白い変化である。
初期の作品では、現実に存在しないものを描いて動かしていた。
しかし本作では、現実に存在する機械の中から、抽象的な形と動きを取り出しているのである。
モノクロだから鉄が美しい
本作はモノクロ映画である。
そのため、溶けた鉄の赤やオレンジ色を、そのまま見ることはできない。
しかし、これが意外なほど効果的なのだ。
高温の金属は、画面の中で強い白として表れる。
その周囲には、黒い機械や暗い工場の内部が広がっている。
つまり、白と黒の極端な対比によって、鉄の熱さや光の強さが表現されているのである。
カラー映画なら、赤く光る鉄の色彩そのものが印象に残るだろう。
しかしモノクロでは、色の代わりに明度が重要になる。
熱せられた金属の形だけが、暗闇の中から突然浮かび上がる。
それは現実の製鉄所というより、どこか非現実的な空間にも見える。
しかも、炉の炎や火花は形が一定ではない。
刻々と変化する光の形が、黒い画面の中で動き続ける。
まるで抽象アニメーションを実写で撮影したような映像である。
これは、モノクロ映画ならではの面白さだろう。
ただし、本作がモノクロだから美しいというだけの話ではない。
何を明るく見せ、何を暗闇に沈めるか。その選択によって、工場の形態そのものが変化して見えるのである。
機械の音を音楽にする
本作には、約10分にわたる「機械の交響曲」とも呼ばれる製鉄所の場面がある。
ここが、ルットマンらしさの最も強く表れた部分だろう。
巨大な機械が動く。
金属が叩かれる。
ローラーが回転する。
炉の中で鉄が流れる。
それらの映像が、機械音とともに次々とつながれていく。
普通なら騒音でしかないものが、編集によって一定のリズムを持ち始めるのである。
しかも、単に音楽に合わせて映像を編集しているわけではない。
機械そのものが発する音を、音楽の一部として使っている。
ルットマンは撮影にあたり、工場内の騒音を録音するため、何度もテストを繰り返したという。
当時の録音技術を考えれば、これはなかなか難しいことだったはずだ。
何しろ、製鉄所は非常に騒がしい。
人間の声を録音するだけでも大変なのに、巨大な機械の音まで、それぞれの特徴がわかるように記録しなければならない。
しかしルットマンは、その騒音を積極的に利用しようとした。
静かな場所で台詞を録音するのではなく、うるさい場所で、そのうるささを映画にしようとしたのである。
ここには『世界のメロディー』や『ウィークエンド』から続く、音響実験の考え方がある。
録音したのに、台詞は吹き替えになった
ところが、実際の録音では問題も起きている。
ルットマンは、製鉄所の音だけでなく、俳優の台詞についても同時録音を試みたという。
しかし、結果はうまくいかなかった。
工場内の騒音があまりにも大きく、台詞を十分な品質で録音することができなかったのである。
そのため、台詞の多くは後から吹き替えることになった。
何とも皮肉な話だ。
機械の音を生かそうとしていたのに、人間の声の方が邪魔になってしまったのである。
これは初期トーキー特有の問題でもある。
現在なら、複数のマイクを使い、必要な音を分離して録音することもできる。
しかし1933年当時は、そうした技術が十分に発達していたわけではない。
本作では、その制約が、ある意味で作品の特徴にもなっている。
機械の音は強烈なのに、人間の声はどこか人工的に感じられる。
結果として、人間よりも機械の方が生き生きしているように見えてしまうのである。
もちろん、それが意図的な演出だったとは限らない。
しかし、録音技術上の問題まで含めて、ルットマンの世界が出来上がっているところが面白い。
カメラを上下に動かす理由
本作では、カメラの移動にも特徴がある。
特に、横方向のパンと縦方向のパンが、意識的に使い分けられている。
例えば、人々の生活や町の風景を見せる場面では、横方向の動きが用いられる。
一方、製鉄所の巨大な装置や、水力発電に関わる施設を見せる場面では、上下方向へのカメラ移動が目立つ。
ここには、映像的な意味があるように思う。
横方向の動きは、人間が地上で生活している感覚に近い。
しかし、巨大な機械や建築物を縦方向に捉えると、その大きさが強調される。
人間の身体とは比較にならない巨大な構造物が、画面を支配するのである。
また、人物や町を高い位置から見下ろす構図も使われている。
そうすると、人物は風景の中の小さな存在になる。
工場は巨大で、人間は小さい。
何ともわかりやすい対比である。
しかし、この構図には単なる大きさの違い以上のものがある。
人間が作ったはずの機械が、いつの間にか人間を圧倒する存在になっているのである。
子供のおもちゃから巨大な機械へ
本作のモンタージュで面白いのは、子供たちが遊ぶ場面から、製鉄所の機械へとつながるところである。
子供たちは、小さな装置を使って遊んでいる。
その動きが、製鉄所にある巨大な機械の動きと結びつけられる。
つまり、子供のおもちゃと巨大な工業機械が、同じようなものとして扱われているのである。
これは、ルットマンらしい編集だと思う。
まったく異なる大きさのものを、動きの共通性によってつなげている。
しかも、両者の間にある現実の距離や時間は、編集によって消えてしまう。
小さな機械が、次の瞬間には巨大な機械になる。
もちろん、実際に変形しているわけではない。
しかし、映像を連続して見ている観客には、二つの動作がつながっているように感じられる。
これは、映画のモンタージュが持つ基本的な性質である。
実際には関係のない二つの映像でも、続けて見せることで関係が生まれる。
ルットマンは、その効果を機械の動きに利用しているのである。
しかも、こうした場面には、工場の機械が人間の日常生活と地続きの存在であるかのように見せる効果もある。
巨大な製鉄所と、小さな子供の遊びが、同じ世界の中に置かれているわけだ。
恋愛映画になると、急に普通になる
ところが、本作には大きな問題がある。
劇映画としての部分が、どうにも弱いのだ。
物語の中心にあるのは、マリオ、ピエトロ、ジーナの三角関係である。
二人の男が一人の女性をめぐって対立し、やがて悲劇が起こる。
それ自体は、当時の映画として特に珍しい物語ではない。
しかし、ルットマンがこの人間関係を描き始めると、工場の場面で見せていた独特のリズムが弱くなってしまう。
人物が会話し、互いの表情を見せ合い、物語が進んでいく。
いかにも普通の劇映画になるのである。
ここが、どうにも不思議だ。
機械を撮影するときには、あれほど大胆な構図や編集を使っていたのに、人間の感情を描こうとすると、急におとなしくなってしまう。
そもそもルットマンは、人間の心理を描くことに、それほど興味がなかったのではないだろうか。
彼が得意としていたのは、人物の内面を説明することではなく、目に見えるものの形や動きを編集することだった。
その意味では、本作は少し無理をして劇映画を撮っているようにも見える。
もっとも、映画全体が単純に二つに分かれているわけではない。
人間関係が激しく対立する場面では、ショットと切り返しの編集が増え、町の人々の声も入り乱れていく。
それまでの集団的なリズムが、個人同士の衝突によって崩れていくわけだ。
このあたりには、物語とモンタージュを結びつけようとする工夫も見られる。
しかし、それでも製鉄所の映像の方が、はるかに面白い。
劇映画としては、ちょっと困った監督である。
ピランデッロの原作を壊してしまう
本作の原案には、ルイジ・ピランデッロの『Giuoca, Pietro!』が使われている。
実際の執筆には、息子のステファノ・ランディも関わっていたとされる。
ところが、ルットマンが映画にしたものは、原案とはかなり違う。
ピランデッロが重視していたのは、人間のドラマだった。
しかしルットマンは、その人間のドラマを小さくし、製鉄所の映像を大きく扱ってしまった。
その結果、ピランデッロは完成した映画に不満を抱いたという。
そりゃそうだろう。
自分が書いた人間の物語が、いつの間にか巨大な機械の映画になってしまったのだから。
ただし、ここは評価の分かれるところである。
原作に忠実な映画が、必ずしも優れた映画になるわけではない。
むしろ、文学と映画には異なる表現方法がある。
文章によって描かれた人物の心理を、そのまま映像に置き換えることが、映画化の目的とは限らない。
ルットマンの場合は、原案の人間ドラマよりも、製鉄所という場所に存在する映像的な可能性を選んだのである。
その判断が正しかったのかどうかは別として、結果的に本作の最も面白い部分は、製鉄所の映像になっている。
原作者が不満を抱いた部分こそ、映画としての魅力になっているというのだから、何とも皮肉な話である。
工場の事故まで映像の一部にする
本作には、工場での労働事故が描かれている。
巨大な機械や高温の金属を扱う仕事なのだから、危険があるのは当然だろう。
ルットマンは、そうした危険も映像として強調している。
炉の炎や巨大な機械は、ときに人間を襲う怪物のようにも見える。
暗い工場の中で機械の輪郭が浮かび上がり、熱せられた金属が激しく動く。
その映像には、ドイツ表現主義映画を思わせるところがある。
機械は人間が操作する道具でありながら、画面の中では、人間よりも強大な存在になっているのである。
ただし、本作が労働環境の危険性を社会問題として追及しているかといえば、そうではない。
事故は、作業員の不注意や個人的な対立と結びつけられている。
つまり、機械や工場の仕組みそのものに問題があるという方向には、物語が進まないのである。
これは、作品が制作された時代の社会的な状況とも関係しているのだろう。
本作は、1933年のファシスト政権下のイタリアで制作された映画である。
しかも、テルニの製鉄所は、当時のイタリアにおける重要な工業施設だった。
巨大な工場を国家の近代化や生産力の象徴として描くという意図も、作品の背景に存在している。
そのため、工場の危険性を見せながらも、最終的には工業生産の力強さが強調される。
ただし、だからといって本作のすべてを政治的な宣伝として片づける必要はない。
むしろ面白いのは、国家の工業力を示すために撮影された映像が、ルットマンの手によって、ほとんど抽象芸術のようなものへと変化していることである。
政治的な目的と、監督の映像的な興味が、同じ画面の中で重なっているのである。
新聞の写真が動き出す
本作には、ルットマンらしい変わった映像表現も登場する。
例えば、マリオが新聞に掲載された自転車競走の写真を見つめる場面。
すると、その写真が動き出し、マリオ自身が自転車競走に参加しているかのような映像へと変化していく。
これは面白い。
現実の場面から、人物の想像へと移り変わるのである。
普通の劇映画なら、回想や夢の場面を挿入する際に、ディゾルブなどで画面を切り替えることが多い。
しかし本作では、新聞の静止した写真が動き出すという方法を使っている。
写真が映画へと変化するわけだ。
しかも、その映像によって、マリオが現在の生活から逃れたいと考えていることが示される。
つまり、人物の心理を台詞で説明する代わりに、映像そのものの変化によって表現しているのである。
ここでは、ルットマンが初期の抽象映画で追求していた、形態の変化という考え方が、劇映画の演出にも生かされている。
こういう場面を見ると、ルットマンはやはり、普通のドラマを撮るよりも、映像そのものを変化させる方が得意だったのだろうと思ってしまう。
滝と製鉄所を結びつける編集
本作には、テルニ近郊のマルモレの滝が登場する。
この滝は、周辺の水力発電と関係があり、製鉄所を支えるエネルギー源でもあった。
そのため、ルットマンは滝の映像と工場の映像を、繰り返し結びつけている。
ここで重要なのは、水がどのように電力へ変換され、工場で利用されているのかを、技術的に説明することではない。
巨大な滝の水流と、製鉄所の激しい機械の動きを、似たような運動として見せることなのだ。
自然の水が流れ落ちる。
工場では、巨大な機械が動き続ける。
その二つが編集によって結びつけられることで、自然の力と工業の力が連続したもののように見えてくる。
この編集も、なかなか巧みである。
しかも、滝は画面いっぱいに白い水を広げ、製鉄所では熱せられた鉄が白く光る。
まったく異なるものなのに、モノクロ映像の中では似たような質感を持っている。
水と鉄。
本来なら正反対の物質だが、映画の中では形態と光によって結びついているのである。
ルットマンは、そうした共通性を見つけることに長けた監督だったのだろう。
ドキュメンタリーが劇映画を飲み込んでしまう
本作は、イタリアのネオレアリズモに先行する作品として語られることもある。
実際の製鉄所で撮影し、地元の人々をエキストラとして起用しているところなどには、後のネオレアリズモと共通する要素がある。
ただし、その二つを同じものとして考えるのは、少し無理がある。
ネオレアリズモでは、人々の日常生活や社会の現実を、映画の中心に据えることが重視された。
しかしルットマンの場合は、現実の製鉄所を撮影しながら、その形態や動きを抽象的な映像へと変換している。
現実をそのまま見せることよりも、現実の中から美しい形やリズムを見つけることに興味があるのである。
その意味では、ドキュメンタリーといっても、かなり特殊なものだ。
工場の作業工程を説明する映画でもなければ、労働者の生活を詳しく描いた映画でもない。
実際に存在する製鉄所を、映像と音によって組み立て直した作品なのである。
しかも、その映像的な魅力が強すぎるため、人間のドラマの方が脇役になってしまっている。
劇映画を作るつもりが、ドキュメンタリーに飲み込まれてしまったようなものだ。
もっとも、ルットマン自身は、それほど困っていなかったのかもしれない。
むしろ、思いどおりの映画が撮れたと思っていた可能性もある。
『世界のメロディー』から何が変わったのか
『世界のメロディー』では、世界各地の映像を集め、異なる文化や人間の行為を、形と動きの共通性によって結びつけていた。
ところが本作では、対象が一つの製鉄所に集中している。
これは大きな違いである。
世界中の映像を使わなくても、一つの工場の中に、これほど多様な形や動きが存在している。
巨大な機械、流れる金属、回転する車輪、作業する人間。
それらを編集するだけで、一つの交響曲が成立する。
むしろ、対象を限定したことによって、映像のまとまりは強くなっているようにも感じられる。
『世界のメロディー』では、世界各地の文化を並べることで、人間に共通するものを見つけようとしていた。
しかし本作では、工場の中に存在する、機械と人間の共通したリズムを見つけようとしている。
しかも、音響技術も進歩しているため、実際の機械音をより積極的に利用できるようになっている。
その意味では、ルットマンがこれまで追求してきた映像と音の実験が、本作でさらに発展したと考えることもできる。
ただし、そこへ劇映画としての物語が加わったことで、作品全体が少し不均一になってしまった。
工場の場面は実験映画として面白い。
しかし、人間のドラマは比較的ありきたりである。
この二つを、最後まで一つの映画として融合させることができたかといえば、疑問が残る。
機械を撮らせたら天才、ドラマはどうなのか
結局のところ、本作はルットマンの長所と短所が、非常にはっきり表れた映画だと思う。
機械の撮影と編集については、相当な才能がある。
巨大な工業施設を撮影し、その形態を抽象的な映像へと変化させる。
さらに、機械音を音楽のように組み合わせ、映像のリズムと一体化させる。
こうした表現は、現在観ても興味深い。
しかし、人間のドラマになると、途端に普通の映画になってしまう。
人物の感情を描くことが苦手だったのか、それとも、そもそも興味がなかったのか。
そこはよくわからない。
ただ、製鉄所の映像を観ていると、ルットマンが何を撮りたかったのかは、よくわかる。
人間ではなく、機械なのだ。
もっとも、これは人間を軽視しているという単純な話でもない。
ルットマンは、機械の動きの中に、人間の身体と共通するものを見つけようとしていたのかもしれない。
規則的に動く機械と、繰り返される労働者の動作。
その両方を同じリズムの中へ組み込むことで、人間と機械を一つの巨大な仕組みとして表現しているのである。
しかし、そうした考え方は、個々の人間が持つ複雑な感情とは、必ずしも相性がよくない。
機械は同じ動作を繰り返す。
しかし、人間はそうはいかない。
嫉妬もするし、怒りもする。間違った判断をすることもある。
その不規則さが、人間の面白さでもある。
ルットマンは、機械の規則的な動きを見事に撮影している一方、人間の不規則な感情については、十分に描けていないように感じられる。
もっとも、それこそが本作の特徴なのだろう。
『鋼鉄』は、優れた劇映画というより、劇映画の中に非常に優れた実験映画が入り込んでいる作品である。
物語そのものは、それほど面白いとは思わない。
しかし、製鉄所の映像と音響だけでも、観る価値は十分にある。
1933年という時代に、実際の工場へカメラを持ち込み、巨大な機械の動きをここまで抽象的に捉え、それを音楽のように編集してしまう。
やはり、ルットマンは普通の監督ではない。
ただ、人間のドラマを撮らせるより、機械を撮らせておいた方が、はるかに面白い映画を作る人だったのではないだろうか。



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