旧華族・信濃家の一人娘として育った雪は、婿養子の直之と結婚している。しかし直之は放蕩を重ね、京都の女・綾子に入れ込みながら財産を浪費していた。雪は幼なじみの菊中方哉に心を寄せ、方哉もまた彼女を愛しているが、雪は夫との関係を断ち切ることができない。
父の死によって家の財政が傾くと、雪は熱海の別荘を旅館にして自立しようとする。しかし直之は綾子らを連れて現れ、雪の生活にさらに入り込んでいく。愛していない夫から離れたいという思いと、その支配から逃れきれない身体との間で苦しみ続ける雪。旧華族という古い世界の崩壊と、一人の女性が自由を得られないまま追い詰められていく姿を、溝口健二が静かな映像美の中に描いた悲劇。
溝口映画によく出てくる、 どうしようもない男が続出する。既述の元禄忠臣蔵の大石内蔵助などは、例外中の例外なのだ。上原謙演じる男は結局何もできないのだが、それは溝口と似ていて、そのナヨってる感じがどういう訳かモテたりする。
スランプ時代の作品とされていて、それは溝口が影響を受けた明治時代の新派っぽさを戦後にやってる古臭さがよろしくなかったのではないか。各ショットの画的な素晴らしさはあるのだが、内容的に共感できる人は少ないだろう。
演出の特徴
特徴的なのは、長回しと移動撮影、人物を遠くから捉える俯瞰構図、水や霧を利用した象徴的な表現である。特に終盤の湖畔の場面は、後の『山椒大夫』における安寿の入水を思わせる重要な演出となっている。
長回しと移動撮影
本作では、溝口の特徴である長回しと移動撮影が随所に見られる。
特に日本家屋の広い室内では、カメラが人物の動きに合わせて横方向へ移動し、複数の部屋や廊下を連続した空間として捉えている。
人物が移動するたびに構図が変化し、それまで画面の外にあった人物や調度品が新たに現れる。
また、カメラを高い位置に置いた俯瞰構図や、クレーンを利用した上下方向の移動も用いられている。
こうした撮影では、人物の表情だけでなく、周囲の空間との関係が重要になる。
大きな屋敷のなかで人物が小さく配置される構図は、登場人物の孤独や、その生活を支配する社会的な力関係を感じさせる。
ただし、本作はすべての場面が長回しで構成されているわけではない。比較的短いショットやカットの切り替えも用いられており、後期の代表作へとつながる演出技法を試みた作品として捉えることができる。
日本家屋の奥行きと人物配置
本作の主要な舞台となる屋敷や旅館では、襖、障子、柱、廊下などが構図を形成する重要な要素となっている。
美術を担当した水谷浩は、日本建築の持つ直線的な構造と奥行きを生かし、人物の関係を視覚的に表現する空間を作り出している。
本作の多くは、当時旅館として営業していた熱海の起雲閣で撮影された。
この建築空間は、旧華族の優雅な生活を象徴すると同時に、登場人物たちを閉じ込める場所としても機能している。
溝口は人物の表情を交互にクローズアップするだけでなく、複数の人物をひとつの画面に収め、その位置関係によって心理的な距離を描いている。
同じ室内にいても互いに理解し合えず、近くに座っていても心は離れている。
そうした人間関係が、人物の配置と視線の方向から浮かび上がってくる。
水のイメージと心理表現
本作で特に重要なのが、水を利用した映像表現である。
序盤、女中の浜子が入浴する場面では、カメラが彼女の視線に合わせて横へ移動し、浴槽からあふれる水をクローズアップで捉える。
その映像に浜子の語りが重なり、カメラは屋敷の内部をゆっくりと移動していく。
ここでは、現在の出来事と浜子の記憶や想像が、明確な区切りを持たずに結びついている。
さらに、物語の終盤では湖の水面が重要な役割を果たす。
本作における水は、単なる風景の一部ではない。人物の欲望や不安、さらには生と死の境界を暗示するものとして繰り返し登場している。
こうした水の象徴的な使い方は、後の『雨月物語』や『山椒大夫』にも引き継がれていく。
視点と時間を曖昧にするカメラワーク
本作には、単なる写実的な表現では説明できない、独特のカメラワークが見られる。
浜子の入浴場面に続く屋敷の描写では、カメラが室内を横方向へ移動しながら、ディゾルブによって別の空間へと移り変わっていく。
しかし、その映像が浜子の現在の視点なのか、過去の記憶なのか、あるいは彼女が思い描く雪夫人の姿なのかは明確ではない。
声による語りは連続しているものの、映像の時間と空間は必ずしも連続していない。
ここでは、カメラの動きによって異なる時間や空間が自然に結びつけられている。
時間と空間の連続性を意図的に曖昧にした表現だと思う。
後の『雨月物語』で、カメラの移動によって現実と幻想が結びつけられる演出にも通じる技法である。
女性の身体と欲望の描き方
本作がほかの溝口作品と異なるのは、女性の苦しみを社会制度だけでなく、身体的な欲望との葛藤として描いている点である。
木暮実千代演じる雪は、夫の横暴や裏切りに苦しみながらも、精神的にも肉体的にも彼から完全に離れることができない。
一方、雪を愛する方哉は彼女を理解しようとするが、具体的な行動によって救い出すことはできない。
ここには、理性では理解していても、感情や身体がそれに従わないという人間の矛盾がある。
溝口は性的な行為を直接的に描写するよりも、障子の向こうから聞こえる声や物音、衣服や身体の動作によって暗示している。
見えない場所で起きている出来事を、音によって観客に想像させる演出である。
また、雪を敬愛する若い女中の浜子が、彼女の現実を目撃するという構成も重要である。
浜子の視線を通して、観客は雪の優雅な外見と、その裏側にある苦しみを知ることになる。
雪が何を考え、なぜ夫から離れられないのかを、すべて説明するわけではない。その理解しがたい矛盾も含めて、一人の女性として描いている。
モノクロームの陰影と耽美的な映像
障子を通した光、畳に落ちる影、浴槽の水面に反射する光、霧に包まれた高原などが、印象的な構図によって描かれている。
特に水面や霧の描写では、画面全体が淡い灰色の階調に包まれ、現実の風景が幻想的な印象へと変化していく。
本作の映像には、後の『雨月物語』にも通じる耽美的な性格が認められる。
しかし、その美しさと登場人物たちの行動には大きな隔たりがある。
美しく整えられた屋敷のなかで、人々は欲望に従い、互いを傷つけ合う。
画面の美しさは、登場人物の幸福を表しているわけではない。むしろ、美しい世界と醜い人間関係との対比によって、悲劇性が強められている。
終盤の湖畔における長回し
本作で最も印象的なのが、終盤の雪が湖へ向かう場面である。
雪は朝霧に包まれた湖畔を静かに歩いていく。
カメラは彼女の姿を追いながら、周囲の草木や水辺の風景をひとつの画面に収める。
ここでは感情を説明する台詞や激しい編集は控えられ、雪の身体の動きと風景そのものが物語を進めていく。
やがて雪は画面から姿を消す。
その後、カメラは湖畔の斜面をゆっくりと下り、水面に浮かぶ彼女の装身具を捉える。
雪の死を直接映すのではなく、彼女がいなくなった後の風景と、そこに残されたものによって死を伝えている。
この場面のカメラワークは非常に計算されたものだが、観客には自然な視線の移動として感じられる。
ここには、後の『山椒大夫』における安寿の入水場面との明確な共通性がある。
ただし、二人の死が持つ意味は異なる。
安寿の死は弟を救うための自己犠牲であるのに対し、雪の死は、自らの欲望や周囲の人間関係から逃れられなかった末の悲劇として描かれる。
同じ水辺での死でありながら、その意味は対照的である。
早坂文雄の音楽とメロドラマ性
本作の音楽を担当したのは早坂文雄である。
後の『雨月物語』では、日本の伝統音楽を取り入れた独特の音響が幻想的な映像と結びついていたが、本作の音楽はより情緒的で、メロドラマとしての性格が強い。
登場人物の感情が高まる場面では音楽も劇的になり、観客の心理を直接的に導く役割を果たしている。
こうした音楽の使い方は、感情を抑制する溝口の長回しやロングショットとは、必ずしも一致していない。
むしろ、映像は静かでありながら音楽は劇的であるという対照が生まれている。
後期作品の洗練された音響表現と比較すると、やや説明的な印象も受けるが、当時のメロドラマとしての特徴が表れているともいえる。
総評
溝口健二の後期作品を特徴づける映像表現が、すでに高度な形で用いられている作品である。
長回し、移動撮影、俯瞰構図、奥行きを生かした人物配置などは、後の『雨月物語』『山椒大夫』にも共通している。
なかでも重要なのは、水や霧といった自然現象を利用し、人物の心理や運命を象徴的に描いている点である。
本作における雪の入水場面は、後の『山椒大夫』における安寿の死を予告するような映像となっている。
どちらも人物の死を直接的に描くのではなく、残された風景によって表現している。
しかし、『雪夫人絵図』では、より官能的でメロドラマ的な表現が前面に出ている。
また、本作が描く女性の苦しみは、単純に男性社会による抑圧だけでは説明できない。自らを傷つける存在から離れられないという、理性と欲望の矛盾が物語の中心に置かれている。
そのため、後の作品に見られる社会批判とは異なる、人間の内面的な葛藤が際立っている。
『雪夫人絵図』は、美しい映像によって人間の醜さと矛盾を描き、その悲劇を静かな自然風景のなかへと帰結させた作品である。
そして、カメラが人物の死から離れ、残された水面を見つめる演出には、後の溝口作品へとつながる映画表現の重要な特徴が認められる。



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