『パリに咲くエトワール』は、20世紀初頭のパリを舞台に、画家とバレリーナを目指す二人の日本人少女を描いたアニメーション映画。谷口悟朗が監督、近藤勝也がキャラクター原案、吉田玲子が脚本を務め、異国の地で夢を追う少女たちの友情と成長を描いている。
あらすじ
1912年、パリ。画家になることを夢見るフジコは、あるトラブルをきっかけに、幼い頃に横浜で出会った千鶴と再会する。武家の家系に生まれ、なぎなたを得意とする千鶴もまた、バレエへの憧れを胸に秘めていた。
千鶴の思いを知ったフジコは、同じアパルトマンに暮らす青年ルスランの母親が、ロシア出身の元バレリーナであることを知り、指導を頼む。周囲が望む生き方や、東洋人として異国で暮らす難しさに直面しながらも、互いに励まし合い、それぞれの道を歩み始める二人。しかし、フジコの保護者である叔父が突然姿を消し、夢を追う日々に思わぬ試練が訪れる。
女性同士の関係というのは男には理解できない。Netflixの「舞妓さんちのまかないさん」のような関係と似ていて、女性が女性に救われたり助けたりする。女性にしか書けない脚本。女性特有の未来的なプラス思考って不思議だわ。
全編を2コマ打ちで作るという選択
本作のアニメーションで最も興味深いのは、基本的に全編を2コマ打ちで制作していることである。
日本の一般的なアニメーションは、毎秒24フレームの映像に対して、同じ絵を3フレーム使用する「3コマ打ち」が基本となっている。つまり、1秒間に必要な絵は8枚程度である。
それに対して2コマ打ちでは、1秒間に12枚の絵を使用する。
単純計算で作画枚数は1.5倍になる。
もちろん、すべての場面を厳密に2コマで動かしているわけではない。動きの少ない群衆などには例外もある。しかし、人物の演技については2コマ打ちを基本とする方針が採られている。
これは、なかなか思い切った選択である。
3コマ打ちでは、動きがわずかに断続的になる。それが日本のアニメーション特有のリズムを生み出している面もある。
一方、2コマ打ちでは、動きがより滑らかになる。
ただし、絵を増やせば自動的に良いアニメーションになるわけではない。
例えば、人物が振り向く場面でも、同じ時間の中で使用する絵が増えれば、頭や肩の動きを細かく描き分けることができる。しかし、その中間の動きをどのように設計するかによって、演技の印象は変わってくる。
つまり、本作では単に作画枚数を増やしたのではなく、最初から2コマ打ちを前提に人物の演技を設計しているのである。
アニメーションにおいて、1秒間に何枚の絵を使うかという選択は、実写映画におけるシャッタースピードの違いとはまた別の意味を持つ。
時間そのものを、何枚の絵に分割するかという問題だからだ。
振り向く動作にまで演出を加える
本作には「キャラクター演出」という、少し珍しい役職が設けられている。
これがなかなか面白い。
例えば、人物が誰かに呼ばれて振り向くとする。
普通なら、振り向く動作を原画で描けば、それで済むように思える。
しかし本作では、誰が、どのような気持ちで、どのくらいの間を置いて振り向くのかということまで検討している。
すぐに振り向くのか。一瞬ためらうのか。身体よりも先に顔が動くのか。
そうした違いによって、人物の性格や心理を表現しているのである。
アニメーションには、感情を伝えるための記号的な表現が数多く存在する。驚けば大きく目を開き、怒れば眉をつり上げ、困れば汗を描く。
しかし、そうした記号的な演技の積み重ねをできるだけ避けようとしたという。
実際の人間は、感情をそれほどわかりやすく表現するわけではない。
嫌なことを言われても、すぐには反応しない場合もある。喜んでいても、表情にはほとんど出さないこともある。
そうした微妙な反応を、一つひとつ作画によって表現しようとしている。
考えてみれば、これは相当に面倒な仕事である。
実写なら俳優が自然に行う動作を、アニメーションでは何枚もの絵に分解し、そのタイミングまで決めなければならない。
しかも本作は基本的に2コマ打ちだから、動きの途中にも細かな変化を描くことができる。
その自由を、派手なアクションではなく、日常の何気ない仕草に使っているところが興味深い。
バレエではアニメ特有の誇張が使えない
アニメーションの動きは、必ずしも現実に忠実である必要はない。
むしろ、動作を大きく誇張したり、実際には不可能な姿勢を描いたりすることで、独特の迫力を生み出すことができる。
ところが、本作のバレエでは、それが簡単にはできなかったという。
例えば、画面上で美しく見えるように手足を伸ばしたとしても、実際のバレエでは不自然な姿勢になってしまう場合がある。
バレエには、身体の軸や足のポジション、重心の移動など、細かな技術的な決まりが存在するからだ。
本作では、実際のダンサーの動きをモーションキャプチャで記録し、それを3DCGに反映させて作画の参考としている。
しかし、モーションキャプチャだけでは十分ではなかった。
指先やつま先の細かな動きが正確に反映されないことや、身体の動きにノイズが生じることもあったという。
そこで、バレエ作画監督が関節の角度や指先の形、目線まで確認している。
特に興味深いのは、アニメーターが考えた見栄えのよいポーズが、バレエとしては間違っているという問題が繰り返し起きたことである。
画面としては美しい。しかし、実際のダンサーはそんな動きをしない。
つまり、アニメーションとしての美しさと、バレエとしての正確さが衝突していたわけだ。
これは実写映画では起こりにくい問題である。
本物のダンサーを撮影すれば、少なくとも身体の動きそのものは現実に存在している。しかしアニメーションでは、存在しない身体の動きを作り出すため、いくらでも間違った動きを描くことができてしまう。
本作では、その自由をあえて制限している。
アニメーションらしい誇張を加えるのではなく、現実の身体が持つ制約を、絵の中に再現しようとしているのである。
撮影処理をあえて薄くする
本作の映像で、もう一つ興味深いのが撮影処理の考え方である。
近年のアニメーションでは、キャラクターや背景を合成した後、さまざまなデジタル処理を加えることが多い。
光をにじませるディフュージョン、霧のような効果を加えるフォギー、画面全体の色調を変えるカラーグレーディングなどである。
こうした処理によって、映像に独特の雰囲気を与えることができる。
ところが本作では、そうした処理を意図的に抑えている。
総作画監督によれば、制作初期のパイロット映像には、現在のアニメでよく使われるディフュージョンやフォギーが加えられていたという。
しかし山下は、それをやめるよう求めた。
理由が面白い。
そうした処理を加えると、画面に湿度が感じられ、パリなのに日本のような湿った空気に見えてしまうというのである。
確かに、画面全体に柔らかな光をにじませれば、映像は美しく見えるかもしれない。
しかし、それによって本来の色や空気感が失われてしまう場合もある。
本作では、背景美術やキャラクターの色をできるだけそのまま見せることが優先されている。
通常なら撮影工程で調整するような色の変化も、可能な限り色彩設計の段階で決めているという。
これは、なかなか徹底している。
後から映像を美しく加工するのではなく、最初から美しく見える色を設計しておく。
つまり、撮影処理によって雰囲気を付け加えるのではなく、作画と背景美術そのものの力を信頼しているのである。
その分、ごまかしは利かなくなる。
画面全体をぼかしたり、光で包んだりすれば目立たなくなるような部分も、そのまま見えてしまうからだ。
本作の映像が比較的すっきりして見えるのは、こうした制作上の判断も関係しているのだろう。
顔の演技を抑えるという難しさ
バレエの場面では、身体だけでなく表情についても細かく調整されている。
やぐちひろこによれば、アニメーターは踊っている人物に、つい大きな感情表現を加えてしまうことがあるという。
苦しければ険しい顔を描き、楽しければ満面の笑みを描く。
アニメーションとしては、ごく自然な演出方法である。
しかし、実際のバレエダンサーは、必ずしもそのような顔で踊っているわけではない。
舞台上では身体の動きに意識が集中しており、表情は比較的落ち着いている場合もある。
そのため本作では、過剰な表情を抑える修正が行われたという。
ここは重要だと思う。
アニメーションでは、感情を見せようと思えば、いくらでも大きく表現できる。
しかし、感情を大きく描いた方が、その人物を深く表現できるとは限らない。
むしろ、何も感じていないように見える表情の中に、複雑な心理が隠れていることもある。
本作では、そうした曖昧さを残すために、あえて表情の情報量を減らしているのである。
ただし、これは単に無表情にすればよいという話ではない。
目線や首の角度、身体の向きなどが変化することで、表情を大きく変えなくても感情を伝えることができる。
その微妙な違いを作画で描き分けるというのだから、なかなか厄介な仕事である。
絵コンテだけでは完成しないアクション
本作では、バレエや薙刀の場面について、通常とは異なる制作工程が採られている。
例えば、バレエの場面では、絵コンテの段階で具体的な踊りの動きまでは決まっていなかったという。
通常の絵コンテには、カメラの構図や人物の動き、場面の長さなどが描かれている。
しかし、バレエの場合は、それだけでは十分ではない。
どのようなステップを踏み、どの方向へ身体を回転させ、どのタイミングで姿勢を変えるのか。
そうした具体的な動きを、演出と作画の打ち合わせによって組み立てる必要があった。
そのため本作では、レイアウトに入る前に、バレエの動きを確認する工程が追加されている。
一般的な作画工程よりも、チェックが一段階増えているのである。
また、薙刀のアクションについても、殺陣作画監督が絵コンテをもとに独自のアクション用コンテを作成している。
ここでは、アニメーター自身が動きの演出に深く関わっている。
つまり、監督が絵コンテですべてを決定し、アニメーターがそれを忠実に描いているわけではない。
実際の動きを知っている専門スタッフが、画面の構成そのものを変えることもあるのである。
例えば、オルガが千鶴にバレエを教える場面では、当初は言葉だけで説明する予定だったところを、実際に踊って教える演出へと変更したという。
台詞による説明を、身体の動きに置き換えたわけだ。
これはまさに、アニメーションにおける演出の仕事である。
初心者の下手な動きまで作画する
薙刀の練習場面には、もう一つ面白い制作上の工夫がある。
千鶴に教わる人々の動きを描く際、制作スタッフは実際に薙刀を持ち、経験のない人間に動いてもらったという。
なぜそんなことをするのか。
アニメーターが頭の中で「下手な人間の動き」を想像すると、どうしても似たような動作になってしまうからだ。
ところが、本当に経験のない人間に武器を持たせると、思いがけない動きが生まれる。
重心の取り方がおかしかったり、身体の向きが不自然だったりする。
そうした動きを参考にすることで、初心者らしさを作画しているのである。
これはなかなか面白い発想だ。
普通なら、上手な動きを描くために専門家を参考にする。しかし本作では、下手な動きを描くために、実際の初心者を参考にしている。
しかも、練習中に千鶴が相手の動きに合わせてフォローする様子まで描かれているという。
こうした動作は、必ずしも物語を進めるために必要なものではない。
しかし、人物が本当にその場に存在しているように感じさせるには、重要な要素となる。
人間の身体は、常に正確に動くわけではない。
そうした不正確さまで意図的に作ることで、アニメーションに現実感が生まれるのである。
作画枚数よりも重要な時間の設計
本作の制作方法を知ると、アニメーションにおける時間の問題が気になってくる。
実写映画では、カメラが毎秒24フレームで撮影すれば、その間に起こった身体の動きが連続して記録される。
しかし手描きアニメーションでは、どの瞬間を絵として描くかを、人間が決めなければならない。
同じ1秒間でも、8枚の絵を使う場合と12枚の絵を使う場合では、動きの印象が変わる。
さらに、同じ12枚であっても、動きの始まりに多くの絵を配置するのか、終わりに多くの絵を配置するのかによって、まったく異なる動きになる。
アニメーションでは、こうした絵と絵の間隔を調整することによって、速度や加速度、重量感を表現している。
つまり、時間の流れそのものを、作画によって設計しているのである。
本作では、そうした時間設計が、日常の演技からバレエまで広く使われている。
ただ滑らかに動かせばよいというわけではない。滑らかさを維持しながら、それぞれの人物らしい動きを作らなければならないからだ。
また、重要な場面だけ作画枚数を増やすのではなく、作品全体で比較的高い密度を保とうとしている点も特徴的である。
総作画監督は、1700カットを超える全カットについて、レイアウトと原画の両段階で確認したという。
派手な見せ場だけでなく、何気ない場面にも同じように注意を払っている。
本作の作画が安定している理由の一つは、こうした制作工程にあるのだろう。
技術を目立たせないという演出
こうして制作方法を調べてみると、本作は想像以上に手間のかかったアニメーションである。
基本的に全編2コマ打ち。キャラクターの何気ない仕草にも細かな演技指導が入り、バレエには専門の作画監督を配置する。
さらに、撮影処理を抑え、背景美術や色彩設計をそのまま見せようとしている。
しかし、これほど手間をかけているにもかかわらず、完成した映像は比較的素朴に見える。
ここが面白い。
普通、技術的に難しいことをやったのであれば、その技術を観客に見せたくなるものではないだろうか。
派手なカメラワークや複雑なCG、強烈な光の効果などを使えば、誰にでも技術の高さが伝わる。
しかし谷口は、本作ではそうした方向を選ばなかった。
むしろ、技術が使われていることを観客に意識させないようにしている。
もっとも、これは少し矛盾しているようにも思う。
これほど多くの労力をかけながら、観客にはその苦労がほとんど見えないのである。
ただし、制作に手間がかかったこと自体を、映画の価値として評価する必要はない。
作画枚数が多ければ優れた映画になるわけでもないし、モーションキャプチャを使ったからといって、必ず自然な動きになるわけでもない。
重要なのは、そうした技術によって何が表現されたかということである。
本作の場合、それは人物が自然に生きているように見えることなのだろう。
アニメーションでは、現実に存在しない人物を、現実に存在しているように見せなければならない。
そして、そのためには現実の動きを忠実に再現するだけでは足りない。
どの動きを描き、どの動きを省略し、どの瞬間に感情を込めるのか。
そうした選択の積み重ねによって、ようやく一人の人物が画面の中に生まれてくる。
『パリに咲くエトワール』は、アニメーションだからこそ可能な派手な映像表現を追求した作品ではない。
むしろ、アニメーションが本来持っている、動きを一つひとつ作り上げるという基本的な技術を、徹底的に突き詰めた作品なのだろう。
映画として新しいことをやっているのかと聞かれれば、必ずしもそうではない。
しかし、アニメーションの技術として何をやっているのかを知ると、これまでとは少し違った見方ができる。
何でも描けるはずのアニメーションが、わざわざ現実の身体の制約を再現しようとしている。
しかも、そのために膨大な枚数の絵を描いているというのだから、考えてみれば不思議な話である。
本作の面白さは、そうした一見無駄にも思える技術的なこだわりにあるのかもしれない。



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