オールド・オーク

2026年映画

『オールド・オーク』は、ケン・ローチ監督が、イギリス北東部の旧炭鉱町を舞台に描いた人間ドラマ。脚本は長年の協働者ポール・ラヴァーティが手がけ、貧困や孤独を抱える住民と、故郷を追われたシリア難民との出会いを通して、分断された社会で人々が支え合う可能性を見つめている。

あらすじ

炭鉱の閉鎖によって活気を失った町で、TJ・バランタインは、住民たちの数少ない集いの場であるパブ「オールド・オーク」を守り続けている。ある日、戦争から逃れてきたシリア難民の家族が町に移り住む。自分たちの暮らしにも余裕のない住民の一部は、彼らに不満や敵意を向け、町には緊張が広がっていく。

そんななか、TJは写真を愛するシリア人の若い女性ヤラと出会い、少しずつ友情を育んでいく。それぞれに喪失を抱える二人は、パブの使われていない部屋を開き、地元の住民と難民が一緒に食事をする場をつくろうとする。しかし、その試みは、長年店に通う常連客たちとの間にも摩擦を生んでしまう。

ドキュメンタリーの監督だった経験があるせいか、そういうテイストが加えられた現代版リアリズムのようだった。社会の問題を正面から捉え、ラストはいかにもな劇映画っぽいけどそれはいいか。

ドキュメンタリーのような劇映画

本作を観てまず感じるのは、ドキュメンタリーのような独特の現実感である。

ケン・ローチは、1960年代にイギリスのテレビ界で活動を始め、社会問題を扱うドキュメンタリーやドラマを手がけてきた監督である。その経験が、現在の映画にも色濃く残っているのだろう。

登場人物たちの会話や仕草には、いかにも演技をしているという感じが少ない。カメラの前で何かを表現しようとしているというより、そこに暮らしている人々の日常を、そのまま撮影しているように見える。

もちろん、実際には脚本があり、俳優が演技をしている。監督自身も、本作はあくまでもフィクションであり、脚本の大部分はそのまま使われていると語っている。

つまり、偶然に起こった出来事を記録しているわけではない。

それでもドキュメンタリーのように見えるのは、カメラの位置や光の使い方、俳優の演技などが、できるだけ作為を感じさせないように設計されているからだろう。

考えてみれば、これは少し不思議なことである。

現実をそのまま撮影すればリアリティが生まれるとは限らない。逆に、周到に演出された劇映画の方が、現実らしく見えることもある。

本作は、まさにそうした映画である。

ドキュメンタリーと劇映画の境界にあるような映像だが、実際にはかなり計算された演出によって成立している。

現代版のリアリズムとでもいうべきだろうか。

35mmフィルムと観察するカメラ

撮影監督を務めたのはロビー・ライアン。『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』などでもケン・ローチと組んできた撮影監督である。

本作はデジタル撮影ではなく、35mmフィルムで撮影されている。

メインカメラにはARRI 35mm ST、サブカメラにはARRI 35mm LTを使用。レンズはARRI Master Primeで、主に50mmから135mmの焦点距離が選ばれている。

画面比率は1.85対1のビスタサイズである。

興味深いのは、ドキュメンタリーのような映像でありながら、手持ち撮影を使っていないことである。

撮影監督によれば、本作では手持ちカメラやステディカムを使用せず、基本的に三脚に固定したカメラで撮影している。

動きを加える場合も、カメラそのものを移動させるのではなく、パンによって人物の動きを追っている。

ドキュメンタリーらしさというと、手持ちカメラの揺れや、素早いカメラ移動などを想像しがちだ。

しかし、ローチはそうした方法に頼っていない。

むしろ、カメラの存在をできるだけ意識させず、目の前で起こっている出来事を観察することに徹している。

ここでのカメラは、登場人物の感情を強調するために動くのではなく、人物が自然に行動できる距離を保ちながら、その姿を捉えるものなのだ。

映像をわざと揺らせばリアルになるというわけではない。かえって、カメラが過剰に動くことによって、撮影者の存在が目立ってしまう場合もある。

本作の落ち着いたカメラワークは、そうした演出を避けた結果ともいえる。

望遠寄りのレンズが生み出す距離感

本作では、50mmから135mmという、比較的焦点距離の長いレンズが中心に使われている。

これは、映画の撮影方法を考えるうえで興味深い。

一般に、広角レンズを使えば、カメラを人物に近づけながら周囲の空間も広く捉えることができる。

一方、焦点距離の長いレンズでは、ある程度離れた位置から人物を撮影しやすくなる。

また、背景の見え方も変化し、遠くにあるものが人物の近くに重なっているように感じられる。

本作の撮影監督は、俳優が自然に演技できる環境を作るため、カメラやスタッフの存在をできるだけ目立たせないことを重視したという。

望遠寄りのレンズを選択したことも、そうした撮影方法と相性がよかったのだろう。

登場人物のすぐそばにカメラを置いて、その表情を強引に捉えるのではない。

少し離れた場所から、人物が話し、動き、反応する様子を観察している。

こうした距離感が、本作の自然な映像につながっているように思う。

人物の感情を観客に直接押しつけるのではなく、表情や動作から読み取らせる。

一見すると地味な撮影方法だが、こうしたカメラとの距離の取り方こそ、ローチのリアリズムを支えているのではないだろうか。

自然光に見える照明

ケン・ローチは、できるだけ自然光を利用した撮影を好む監督である。

撮影監督のロビー・ライアンによれば、ローチは正面から当たる光を好まず、特に逆光を好むという。

そのため、撮影では太陽の位置とカメラの方向が重要になる。

しかし、本作の照明は、実際の自然光だけで成立しているわけではない。

パブの内部では、天井付近に小型の照明器具を隠し、窓の外からも人工光を入れている。

使用されたのはDMG SL1などのLED照明やHMIライトである。

ただし、こうした機材が画面に入ることはない。光源の存在を感じさせないように配置されているからだ。

ここが面白い。

観客には自然な光に見えていても、実際には照明機材によって作られた光なのである。

撮影にはKodak VISION3の35mmカラーネガフィルムが使用され、屋外の明るい場面には50D、昼間の室内には250D、暗い室内や夜間の撮影には500Tが使い分けられている。

それぞれのフィルムの感度や特性を考慮しながら、できるだけ自然な映像を作ろうとしている。

つまり、本作のリアリズムは、何もしないことで生まれているわけではない。

人工的な照明や撮影技術を使いながら、その作為を感じさせないことによって成立している。

自然に見える映像ほど、実際には綿密な計算が必要なのかもしれない。

非職業俳優による演技

本作では、職業俳優だけでなく、演技経験の少ない人々も数多く出演している。

TJを演じたデイヴ・ターナーも、長年消防士として働いてきた人物であり、もともと俳優を本業としていたわけではない。

また、シリア難民を演じる人々の中にも、実際に難民としての経験を持つ人や、映画出演の経験がほとんどない人々が参加している。

こうした人々を起用することで、映画に独特の現実感が生まれている。

例えば、TJがパブでビールを注ぐ動作には、いかにも演技をしているような不自然さがない。

監督によれば、ターナーには実際にパブで働いていた経験があり、ビールを注ぐ行為が身体に染みついているという。

これは重要なことである。

俳優が役柄の動作を練習して再現することと、その動作を日常的に行ってきた人間が自然に動くことは、必ずしも同じではない。

カメラは、その違いを意外なほど正確に捉える。

ローチは、そうした身体の記憶を映画の中に取り込もうとしているのだろう。

もっとも、非職業俳優を起用すれば、必ずリアリティが生まれるというわけでもない。

演技経験のない人に不自然な台詞を言わせれば、かえって作り物のように見えてしまう。

ローチは、その問題を避けるため、出演者が自分なら決してしないと思う行動については、監督に伝えるよう求めている。

そして必要に応じて、脚本や場面を変更する。

脚本に俳優を合わせるのではなく、俳優が持つ現実の感覚に脚本を近づける。

この方法が、本作の自然な演技を生み出しているように思う。

物語の順番に撮影する方法

ケン・ローチの撮影方法で特徴的なのが、物語の進行に沿って順番に撮影することである。

通常の映画制作では、効率を優先して、同じ場所で行われる場面をまとめて撮影することが多い。

しかしローチは、できるだけ物語の順番に撮影する。

また、俳優には物語の先の展開をすべて知らせず、その場面で必要な情報を少しずつ伝える方法を採用している。

これによって、俳優は登場人物と同じように、これから何が起こるのかわからない状況に置かれる。

例えば、予期しない出来事に直面する場面では、俳優自身もその事実を初めて知ることになる。

その結果、台本を読んで何度も準備した反応とは異なる、自然な驚きが生まれる。

本作でも、パブの奥の部屋で水漏れが起こる場面について、出演者には事前に詳しい状況が知らされていなかったという。

これは、演技を演技らしく見せないための方法なのだろう。

ただし、監督は何もせず偶然を待っているわけではない。

俳優が自然に反応できるように、撮影の順番や情報の与え方を細かく調整している。

自然な演技を引き出すために、あえて状況を作り出しているのである。

ここにも、ドキュメンタリーに見える劇映画という、本作の特徴が表れている。

実際の町を利用した撮影

本作は、イギリス北東部のダラム州にあるマートン、ホーデン、イージントンなど、かつて炭鉱で栄えた地域で撮影されている。

パブ「オールド・オーク」も、もともとマートンに存在した「ザ・ヴィクトリア」という閉業したパブを利用したものである。

つまり、映画のためにすべてを作り上げたわけではない。

実際の町や建築物を撮影することで、そこに蓄積された時間が映像に表れている。

建物の傷み、使われなくなった店舗、活気を失った通り。こうした風景は、台詞によって説明しなくても、地域が置かれている状況を伝えてくれる。

映画の美術では、必要に応じて建物を汚したり、古く見せたりすることがある。

しかし、本作では実際の町が持つ荒廃した風景そのものが、重要な映像表現となっている。

ただし、現実の場所を撮影したからといって、それがそのまま客観的な記録になるわけではない。

監督は、どの通りを撮影し、どの建物を見せ、どのように編集するかを選択している。

つまり、実際の風景を利用しながら、映画が必要とする町の姿を構成しているのである。

ここはドキュメンタリーも劇映画も変わらない。

現実を撮影することと、現実をそのまま伝えることは、同じではないのだ。

写真が持つ記録としての役割

本作で特に興味深いのが、写真の使い方である。

ヤラは写真を撮ることが好きで、町の風景や人々の姿を撮影している。

一方、パブの使われなくなった部屋には、かつての炭鉱町の写真が残されている。

そこには、炭鉱労働者たちが協力し、地域の人々が集まっていた時代の記録がある。

この二つの写真は、それぞれ異なる時間を捉えている。

過去の写真は、失われた町の姿を記録している。一方、ヤラが撮影する写真は、現在そこに存在する人々の姿を記録している。

その二つが結びつくことで、写真は単なる記録ではなく、過去と現在をつなぐものとなる。

特に面白いのは、ヤラが写真を撮るという行為によって、町の人々を観察し、理解しようとしていることである。

言葉や文化が異なっていても、写真を撮るためには相手を見る必要がある。

その人がどのような場所に暮らし、どのような表情をしているのか。カメラを向けるという行為は、相手に関心を持つことでもある。

ただし、カメラを向ければ相手を理解できるというほど、単純な話ではないだろう。

写真に写るのは、あくまでも撮影者が選んだ一瞬である。

その人物の人生や感情が、写真一枚によってすべて伝わるわけではない。

それでも、写真を撮ることによって、それまで見過ごしていたものに気づくことはある。

本作では、写真がそのような役割を果たしている。

ちなみに、劇中に登場する写真には、長年ローチ作品に参加してきたスチルカメラマンが撮影したものに加え、ヤラを演じるエブラ・マリ自身が撮影したものも含まれているという。

彼女は役作りの一環として実際に町を歩き、写真を撮影していた。

これは、なかなか面白い試みである。

役柄のために写真を撮ることが、そのまま町を知ることにつながっている。

写真を物語の小道具として使うだけでなく、俳優がその場所を理解するための手段としても利用しているのである。

写真家クリス・キリップからの影響

撮影監督のロビー・ライアンは、本作の撮影にあたり、イギリスの写真家クリス・キリップの作品を参考にしたという。

キリップは、イギリス北東部の労働者や地域社会を長年撮影してきた写真家である。

特に『In Flagrante』などの写真集では、産業の衰退とともに変化する地域の姿や、そこで暮らす人々を記録している。

その写真には、劇的な出来事を強調するというよりも、目の前に存在する人々や生活を、静かに見つめる姿勢がある。

本作の撮影にも、そうした考え方が取り入れられているのだろう。

人物を必要以上に美しく見せようとするのではなく、その人が置かれた環境も含めて撮影する。

背景を単なる装飾として扱わず、人物の生活を構成する一部分として捉える。

映画と写真では時間の扱い方が異なるが、ここには共通するものがある。

ただし、キリップの写真が持つ力は、社会問題を扱っていることだけにあるのではない。

人物の配置や光、背景との関係など、一枚の写真としての構成にも魅力がある。

社会的に重要なものを撮影すれば、優れた写真になるわけではない。

それは映画でも同じだろう。

本作が社会問題を扱っているからといって、それだけで優れた映画になるわけではない。

重要なのは、その問題をどのように映像として表現したかということである。

パブという空間の使い方

本作で重要なのは、パブという場所そのものである。

パブは単に酒を飲む場所ではない。地域の人々が顔を合わせ、話をし、意見を交わす場所でもある。

しかし、炭鉱の閉鎖によって町の活気が失われると、そうした共同体の機能も衰えていく。

本作のパブは、その変化を象徴する空間となっている。

常連客たちは、かつての町を知っている。しかし、現在の生活には不満を抱えている。

そこへシリア難民がやってくることで、もともと存在していた不満が、目に見える対立として現れてくる。

興味深いのは、同じ空間であっても、そこに集まる人々によって意味が変わることである。

常連客にとっては自分たちの居場所であり、難民にとっては必ずしも歓迎される場所ではない。

しかし、使われなくなった奥の部屋を開放することで、それまでとは異なる人々が集まる場所へと変化していく。

つまり、パブの変化そのものが、物語を表しているのである。

映画では、人物の心理を台詞によって説明することが多い。

しかし本作では、誰がどこに座り、誰と食事をし、どのような距離を取っているのかによって、人間関係の変化が示されている。

そうした空間の使い方は、なかなか巧みだと思う。

社会問題を単純な善悪で描かない姿勢

本作では、シリア難民を受け入れることに反対する住民たちが登場する。

彼らの言動には、明らかな偏見や差別も含まれている。

しかし、ローチは彼らを単純な悪人として描こうとはしていない。

炭鉱の閉鎖によって仕事を失い、地域の衰退を経験し、生活への不安を抱えながら暮らしている。

その不満が、後からやってきた難民たちへと向けられているのである。

もちろん、生活が苦しいからといって、差別的な言動が正当化されるわけではない。

しかし、なぜそのような感情が生まれるのかを描くことと、その感情を肯定することは別の問題である。

本作では、そうした背景が比較的丁寧に描かれている。

ここに、ローチが長年取り組んできた社会派映画としての特徴がある。

人物の行動を、その人の性格だけで説明するのではなく、社会や経済の状況との関係から描こうとしているのである。

ただし、ローチ自身の社会に対する考え方は明確であり、映画全体が完全に中立な立場から作られているわけではない。

監督は、どの人物に焦点を当て、どの場面を見せるかを選択している。

本作もまた、明確な視点によって構成された劇映画である。

その点では、ドキュメンタリーのように見えることと、客観的な映画であることは、まったく別の話なのだ。

抑制された演出と終盤の変化

本作の大部分では、派手なカメラワークや大げさな演技が抑えられている。

人物たちの日常を淡々と見せ、そこに生まれる小さな摩擦や感情の変化を積み重ねていく。

その演出方法には、ローチらしい一貫性がある。

しかし、終盤になると、映画はそれまでとは少し異なる方向へ進んでいく。

人々が集まり、互いの悲しみを共有し、共同体としてのつながりを取り戻そうとする場面では、明確な感情的高揚が生まれる。

ここは、いかにも劇映画らしい。

それまで現実の生活を観察しているように見えた映画が、最後には観客へ希望を示すための、かなり意図的な構成へと変化するのである。

もちろん、こうした結末が悪いわけではない。

ただ、社会の分断という複雑な問題が、人々の善意や連帯によって乗り越えられていくという展開には、少し出来すぎた印象もある。

現実の社会では、これほど簡単に問題が解決するとは限らない。

経済的な格差や地域の衰退は、人々が互いを理解しただけで解消されるものではないからだ。

その意味では、終盤の展開は、それまで積み重ねてきたリアリズムから、少し離れているようにも感じられる。

しかし、ここはそれでいいのかもしれない。

映画は必ずしも現実の厳しさだけを描く必要はないし、現実にはなかなか実現しない希望を描くことにも意味がある。

むしろ、あれほど現実の問題を正面から描いてきた監督だからこそ、最後には希望を残したかったのだろう。

リアリズムを徹底してきた映画が、最後にいかにも劇映画らしい表現へと向かう。

そこに多少の作為を感じたとしても、それを否定する必要はないように思う。

ケン・ローチのリアリズムとは何か

本作を観て改めて感じるのは、リアリズムとは何なのかということである。

ドキュメンタリーのように撮影すれば、リアルな映画になるのだろうか。

実際の町で撮影し、非職業俳優を起用し、自然光に見える照明を使えば、現実そのものが映し出されるのだろうか。

もちろん、そんな単純な話ではない。

本作は、きわめて計算された劇映画である。

脚本があり、俳優が演技をし、カメラの位置も照明も、監督と撮影監督によって決められている。

しかし、その作為をできるだけ感じさせないことで、観客に現実を見ているような感覚を与えている。

つまり、本作のリアリズムは、現実をそのまま撮影することで成立しているのではない。

現実らしく見えるように、映画として構成することによって成立しているのである。

この点は、写真にも通じるものがある。

写真は現実を写す媒体だが、撮影する時点で、撮影者は何を写し、何を写さないかを選択している。

カメラの位置やレンズ、光の使い方によって、同じ被写体でもまったく異なる写真になる。

映画も同じだ。

ローチは、現実を記録しているように見せながら、実際には明確な意図を持って、その現実を構成している。

そして、その方法が非常に自然なのである。

現代版リアリズムとしての『オールド・オーク』

『オールド・オーク』は、派手な映像表現によって観客を驚かせる映画ではない。

35mmフィルムを使いながら、カメラはほとんど動かさず、自然光に見える照明によって、人物の日常を淡々と捉えていく。

出演者には非職業俳優を多く起用し、撮影を物語の順番に進めることで、作られた演技ではなく、その場で生まれる自然な反応を引き出そうとしている。

こうした方法は、ケン・ローチが長年追求してきたものだ。

その意味では、本作にまったく新しい演出方法があるわけではない。

むしろ、これまでのローチ作品で培われてきた方法が、非常に安定した形で使われている。

ただし、その安定感が、必ずしも映画を予定調和的なものにしているわけではない。

登場人物たちの言動には、実際の生活に根ざした説得力があり、社会問題を単純な善悪の対立として描かないところにも、監督の経験が感じられる。

一方、終盤では、それまでの自然な描写から離れ、希望や連帯を強く意識した劇映画らしい展開が用意されている。

この結末には、少し作為を感じる。

しかし、現実の問題を正面から描くことと、映画として希望を示すことは、必ずしも矛盾するものではない。

ローチは、現実の厳しさを知っているからこそ、その先に何かを見いだそうとしているのだろう。

本作の魅力は、社会的な主張の強さだけにあるのではない。

人物の身体や表情、町の風景、光の使い方など、映画を構成する一つひとつの要素が、現実らしさを生み出すために選択されている。

しかも、その技術を観客に意識させようとはしない。

技巧を見せびらかすのではなく、技巧を感じさせないことによって成立する映画なのである。

そう考えると、ドキュメンタリーのように見えること自体が、ケン・ローチの最も重要な演出なのかもしれない。

現実を記録した映画ではなく、現実を記録したように見せる劇映画。

『オールド・オーク』は、そんな現代的なリアリズムを、改めて考えさせる作品だった。

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