DIGGER/ディガー

2026年映画

石油採掘会社のCEOとして巨万の富と権力を握るディガー・ロックウェルは、自らの利益を最優先する傲慢な実業家だった。しかし、その強欲な行動が引き金となり、地球は滅亡の危機に陥ってしまう。大統領から事態の収拾を命じられたディガーは、自らが引き起こした危機を解決するため、世界を救うべく奔走する。果たして、破滅の原因をつくった男は人類の救世主となれるのか。権力者の欲望と自己中心性を、ブラックユーモアと壮大な混乱を通して描く風刺的なコメディ。

撮影技術だけでも面白い作品。特に注目したいのは、ビスタビジョンを使いながら広角29mmで被写界深度を深くする撮影、舞台と現実で変わるレンズの使い方、そして映像を絵画のように構成する演出。

ビスタビジョンを、わざわざ正方形に近い画面で使う

本作の撮影監督はエマニュエル・ルベツキ。『バードマン』や『レヴェナント』でもイニャリトゥと組んでいる。

撮影にはビスタビジョンが使われた。

ビスタビジョンとは、35mmフィルムを通常の映画とは違って横方向に走らせ、1コマに8個のパーフォレーションを使用する方式である。

通常の35mm映画は4パーフォレーションだから、単純にいえば、約2倍の面積を使っているわけだ。

大きな画面で上映しても粒子が目立ちにくく、細部まで描写できる。

ところが、本作はそのビスタビジョンを使いながら、1.50対1という、かなり正方形に近い画面比率を採用している。

一部の上映形式や場面では1.85対1も使われるが、基本となるのは1.50対1だ。

普通なら、大きなフィルムを使って横に広い壮大な映像を撮りたくなるところだろう。

しかしイニャリトゥは、そうしなかった。

むしろ、人物とその周囲にあるものを、一つの画面の中へ詰め込もうとしている。

これは、なかなか面白い。

画面を横へ広げるのではなく、縦方向にも余裕を持たせることで、人物の全身や背景の建築物まで見せることができる。

何とも贅沢な使い方である。

大きなフィルムなのに、広角レンズでパンフォーカス

本作の撮影で特に興味深いのは、レンズの選択である。

イニャリトゥによれば、多くの場面で29mmの広角レンズを使用しているという。

使用されたのはLeitz ELSIEや、作品に合わせて調整されたPanavisionのレンズなどである。

しかも、監督が求めたのは、画面全体にピントが合っているような、被写界深度の深い映像だった。

これは意外と難しい。

ビスタビジョンのように撮影面積が大きい場合、同じ画角やF値などの条件で比較すると、小さな撮影フォーマットより被写界深度が浅くなりやすい。

つまり、背景まで鮮明に見せようとすれば、絞りを絞る必要がある。

しかし、絞れば当然、光量が不足する。

イニャリトゥは、この撮影のために通常よりはるかに多くの照明を必要としたと語っている。

何とも面倒なことをしている。

普通なら、大きなフィルムを使って美しいボケを表現するところだが、イニャリトゥは逆に、できるだけボケをなくそうとしているのである。

なぜそんなことをするのか。

監督は、観客が一枚の絵画を眺めるように、画面の隅々まで自由に見られる映像を作りたかったという。

つまり、人物の顔だけを見せたいわけではない。

人物の後ろにある家具や窓、その奥にいる人々まで、すべて見せたいのである。

この発想は、なかなか興味深い。

カメラが教えてくれない映画

一般的な映画では、観客に何を見せたいのかを、カメラがある程度決めてくれる。

人物の感情を見せたければ、顔のクローズアップにする。

重要な物体があれば、そこへピントを合わせる。

背景をぼかせば、観客の視線は自然に人物へと向かう。

しかし本作では、そうした方法が比較的抑えられている。

画面の手前にも奥にも、さまざまな情報が存在している。

そのため、観客は自分で見る場所を選ばなければならない。

もちろん、実際には監督が構図を決めているのだから、完全に自由というわけではない。

しかし、重要なものをすべて大きく見せてくれる映画とは、明らかに違う。

イニャリトゥは、背景にあるものまで人物の性格や社会的な立場を表す要素として扱っている。

例えば、権力者のいる空間では、その人物だけでなく、周囲に置かれた物や建築物までが、権力を表現するための装置になっている。

ここでは、人物の表情だけを追っていても、画面の情報を十分に読み取ることはできない。

映像を一つの空間として観察する必要がある。

ただし、あまりに多くのものを画面に入れてしまえば、何が重要なのかわからなくなる可能性もある。

本作には、そこまで細かく作り込まなくてもよかったのではないかと思わせる場面もある。

しかし、そうした過剰さ自体が、この映画の特徴なのだろう。

絵画を参考にした光と構図

本作の映像には、ヨーロッパ絵画からの影響が強く見られる。

イニャリトゥは、撮影にあたって、フェルメール、レンブラント、ホイッスラー、ハマスホイ、ベラスケスなどの作品を参考にしたという。

特に面白いのは、人物と空間との関係である。

例えばフェルメールの絵画では、人物だけでなく、その周囲の窓や家具、壁などが、非常に緻密に配置されている。

人物の心理が、周囲の空間によって表現されているのである。

本作にも、そうした考え方が見られる。

人物の顔を大きく映すのではなく、人物がどのような場所にいるのかを見せる。

そして、その空間を構成する物体の配置によって、人物の立場や心理を暗示している。

また、ハマスホイの絵画を思わせる、彩度を抑えた色彩も特徴的である。

色鮮やかな映像によって観客を楽しませるのではなく、どこか色が抜け落ちたような、冷たい画面が続く。

イニャリトゥは、ディガーが登場する場面の色彩について、漂白されたような印象を求めたという。

しかし、ここで疑問も生まれる。

絵画的な構図を作れば、映画として優れたものになるのだろうか。

絵画は基本的に静止したものである。しかし映画には時間があり、人物が動き、画面が変化する。

一枚の絵として美しくても、それを映画の中でどのように動かすかは、別の問題なのだ。

本作では、そうした絵画的な構図と映画の時間とを結びつけようとしている。

巨大なセットなのに、舞台のように見せる

本作の撮影は、主にイギリスのパインウッド・スタジオで行われた。

美術を担当したのはデニス・ガスナーとリチャード・ジョンソン。

巨大なセットが建設され、監督はその内部に人物や物体を細かく配置している。

しかも、その作業は撮影前から相当に計算されていたという。

イニャリトゥは、小型カメラを使って代役の人物を撮影し、台詞の長さや人物の位置、窓の高さ、光の方向まで確認していた。

つまり、本番の撮影に入る前に、実際のカメラで構図を徹底的に検証していたのである。

ここまでするのかと思ってしまう。

しかし、本作の映像を観ると、その理由もわかる。

画面のどこを見ても、何かが配置されている。

しかも、人物が動くと、その背景にあるものとの関係まで変化する。

つまり、俳優の演技だけでなく、セットの構造そのものが映像表現の一部になっているのである。

ただし、この巨大なセットが、後に別の意味を持ち始めるところが本作の仕掛けでもある。

現実の世界として見せられていたものが、実は演劇のために作られた空間でもあることが明らかになる。

最初から人工的な空間だったわけだ。

映画の中で芝居をしているのに、我々はそれを現実だと思って観ていたのである。

舞台の外へ出ると、レンズまで変わる

本作では、劇中劇であることが明らかになった後、映像の見せ方そのものが変化する。

ここが、かなり面白い。

イニャリトゥによれば、舞台上の場面では広角レンズを使い、人物の顔だけでなく、手足や身体全体を見せるようにしていたという。

これは演劇の見せ方に近い。

実際の舞台では、観客は役者の顔だけを見ているわけではない。

役者がどのように立ち、どのように歩き、相手とどの程度距離を取っているのか。

そうした身体全体の動きが重要になる。

本作では、その特徴を映画の中に持ち込んでいるのである。

一方、舞台裏や劇中劇の外側では、より人物に近づいた構図が使われる。

レンズの選択だけでなく、色彩や音響の設計も変化するという。

つまり、劇中劇とその外側では、異なる映画的な文法が使われているわけだ。

ここは、単に物語が二重構造になっているという話ではない。

撮影方法そのものが、二つの世界を区別しているのである。

しかも、観客がその違いを最初から理解できるようには作られていない。

途中で仕掛けに気づくことで、それまで観ていた映像の意味まで変わってしまう。

なかなか意地の悪い演出である。

作り物だとわかった瞬間に、映像の意味が変わる

本作には、それまで現実として受け入れていた世界が、突然、芝居の舞台だったと明らかになる場面がある。

この仕掛けは、かなり重要である。

なぜなら、それまで観客は、画面に映っているものを映画の中の現実として受け入れていたからだ。

ところが、舞台装置であることが明らかになると、同じ映像でも意味が変わってしまう。

例えば、窓の外に広がる風景があるとする。

普通なら、その窓の向こうにも世界が続いていると考える。

しかし、舞台のセットだとわかれば、その向こう側には何も存在しない可能性がある。

つまり、カメラに映っているものが、どこまで本当に存在しているのかわからなくなるのである。

映画とは、そもそもそうした芸術なのだろう。

観客は、カメラが見せているものを信じる。

しかし、カメラに映っているものが現実であるという保証など、どこにもない。

本作では、そのことを物語の構造そのものによって示している。

しかも、ただのどんでん返しで終わらせず、その後も現実と虚構の関係を変化させていく。

どちらが本当の世界なのか。

その境界を何度も揺さぶることで、映画そのものの仕組みを観客に意識させるのである。

トム・クルーズの身体を壊してしまう

本作でのトム・クルーズは、これまでの映画とはずいぶん違う。

白髪交じりの薄い髪、たるんだ顔、突き出た腹。

『ミッション:インポッシブル』で見慣れた姿とは、まるで別人である。

特殊メイクを担当したのは、カズ・ヒロ。

クルーズは役作りのために、長時間の特殊メイクを施して撮影に臨んでいる。

ここは、なかなか面白い選択だ。

これまでのクルーズは、自分の身体を使って、観客を驚かせてきた。

高い建物から飛び降り、航空機にしがみつき、全力で走る。

鍛え上げられた身体そのものが、映画の見せ場になっていた。

しかし本作では、その身体を隠してしまう。

しかも、わざわざ醜悪な権力者の姿に変えているのである。

これは、単なる役作り以上の意味を持っているように思う。

観客が知っているトム・クルーズというスターのイメージを、意図的に壊しているからだ。

さらに、本作では、その人物自体が舞台上で演じられた役柄であることも明らかになる。

つまり、クルーズが役を演じ、その役を演じる人物が、さらに別の人物を演じている。

何ともややこしい。

しかし、この重なりによって、俳優という存在そのものが、映画の主題にもなっているのである。

約10分間の演説をワンカットで撮る

本作には、トム・クルーズによる約10分間の長い演説がある。

しかも、この場面は長回しのワンテイクで撮影されたという。

これは、俳優にとって相当な負担だったはずだ。

台詞を覚えるだけでなく、話す速度や身体の動き、感情の変化まで、一つの時間の中で成立させなければならない。

しかも、映画の撮影では、カメラの位置や照明との関係も考える必要がある。

興味深いのは、この場面を編集によって細かく切り替える案も検討されていたことである。

編集監督のスティーヴン・ミリオンによれば、観客の反応を挿入するなど、より多くのカットを使ったバージョンを実際に編集してみたという。

しかし、それではクルーズの身体的な演技が持つ力が弱くなってしまった。

そこで、長回しを生かすことにしたのである。

ここは、なかなか重要だと思う。

長回しが優れているから採用したわけではない。

実際に短いカットへ分解してみた結果、長回しの方が効果的だと判断したのである。

ただし、10分間も演説を聞かされる観客にとっては、かなり長い。

演技の技術としては見応えがあるものの、その言葉が映画としてどれほど効果的なのかは、また別の問題である。

スクリューボール・コメディを現代に持ち込む

本作の台詞の応酬には、1930〜40年代のアメリカ映画を思わせるところがある。

いわゆるスクリューボール・コメディである。

登場人物たちが猛烈な速度で話し、相手の言葉に次々と反応する。

一人が何かを言えば、別の人物がすぐに言い返す。

その応酬自体が、一つのリズムになっている。

本作では、そうした台詞のテンポが意識的に作られているという。

編集のコナー・オニールとスティーヴン・ミリオンも、台詞のリズムを重要視していたと語っている。

ただし、速い台詞を細かく編集しているわけではない。

むしろ、俳優たちが同じ画面の中で会話を続け、その場でリズムを作ることが重視されている。

ここは、舞台演劇のような撮影方法とも関係している。

俳優同士が十分に稽古を重ね、相手の言葉に自然に反応できるようにする。

そのうえで、カメラはできるだけ会話を途切れさせずに捉える。

つまり、編集でテンポを作るのではなく、俳優の演技によってテンポを作ろうとしているのである。

もっとも、本作の台詞には、かなり大げさで騒々しいところもある。

その騒々しさがブラックコメディとして機能している場面もあれば、単にうるさく感じられる場面もある。

このあたりは好みが分かれるだろう。

撮影してから脚本を作り直す

本作の編集については、もう一つ興味深い話がある。

イニャリトゥは、撮影した場面を翌日に確認し、気に入らなければ、その場面を大幅に変更して撮り直すことがあったという。

しかも、単なる撮り直しではない。

台詞や場面の構成そのものを変更し、異なるバージョンを撮影するのである。

そして編集では、その複数のバージョンを組み合わせて、一つの場面に仕上げている。

何とも贅沢な制作方法だ。

普通なら、脚本を決めてから撮影し、その素材を編集する。

しかし本作では、撮影と編集を繰り返すことで、脚本まで変化させているのである。

つまり、完成した場面の中には、異なる日に撮影された、異なる演出の映像が混在している場合もある。

それを観客に気づかせず、一つの場面として成立させている。

ただし、こうした方法には危険もある。

いくらでも変更できるとなれば、いつまでたっても作品が完成しない可能性があるからだ。

本作の複雑な構成は、そうした試行錯誤によって作られたものでもあるのだろう。

ビスタビジョンのカメラがうるさすぎる

撮影機材について、最も面白いのは録音の問題である。

本作ではビスタビジョンを採用したが、そのカメラが非常にうるさかったという。

通常の35mm映画では、フィルムが縦方向に送られる。

しかしビスタビジョンでは、フィルムを横方向へ高速で送る必要がある。

しかも、1コマ当たりに使用するフィルムの長さも大きい。

そのため、カメラの機械音が録音上の問題になった。

編集の段階では、台詞に混ざったカメラの音を除去するため、ノイズ除去処理が行われたという。

ところが、今度は人物の声が不自然になってしまった。

ノイズを取り除こうとすると、声の質感まで変わってしまうのである。

そのため、音響の仕上げが進んでからも、台詞の処理をやり直す必要があった。

イニャリトゥは、この音響処理に非常に長い時間を費やしたと語っている。

何とも皮肉な話だ。

美しい映像を撮るためにビスタビジョンを使った結果、今度は音が汚くなってしまったのである。

しかも、それを修正するために、膨大な時間と技術が必要になる。

映画の撮影というものは、なかなか思いどおりにはいかないらしい。

音楽まで普通に作らない

音楽を担当したのはコスモ・シェルドレイク。

本作では、一般的な映画音楽とは少し違う方法が採られている。

通常、映画の編集では、既存の音楽を仮に当てはめることがある。

それをテンポラリー・スコアと呼ぶ。

編集者は、その音楽に合わせて場面の長さやリズムを調整する。

しかし本作では、ほとんどその方法を使っていない。

シェルドレイクが作った音楽を早い段階から使用し、編集に合わせて曲を変化させていったという。

しかも、イニャリトゥは、画面の感情を説明するような音楽を避けようとしていた。

例えば、悲しい場面に悲しい音楽を流せば、観客は簡単にその感情を理解できる。

しかし、本作では、そのようなわかりやすい方法をあまり使わない。

むしろ、映像とは少し違う感覚を持つ音楽を重ねることで、場面に奇妙な雰囲気を与えている。

ここはブラックコメディとして興味深い。

大変な事態が起こっているのに、音楽が必ずしも深刻ではない。

その違和感によって、観客は笑ってよいのか、恐れてよいのかわからなくなる。

ただし、何とも理解しにくい音楽である。

奇妙だから面白いというほど、単純な話でもないだろう。

風刺は強烈だが、あまりにわかりやすい

本作は、権力者の強欲や無責任さを、かなり露骨に描いている。

登場人物たちは、現実の政治家や企業経営者を思わせるような、極端な性格の持ち主ばかりである。

その言動は誇張され、ときには人間というより、風刺画に登場する怪物のように見える。

これは、いわゆるカリカチュアの方法である。

人物の特徴を極端に強調することで、現実には見えにくい問題を、わかりやすく表現する。

ただし、本作の風刺には、少し気になるところもある。

それは、あまりにわかりやすいことである。

強欲な企業経営者がいて、無責任な権力者がいて、彼らの判断によって社会が混乱する。

なるほど、そういうことなのだろう。

しかし、それは観客がすでに知っているような話でもある。

風刺というのは、現実の矛盾を指摘するだけでは十分ではない。

普段は気づかないような問題を、別の角度から見せるところに面白さがあるのではないだろうか。

本作には、そうした発見がある場面もある。

しかし、あまりに誇張された人物が登場すると、風刺の対象そのものが単純になってしまう。

強欲な人間を、極端に強欲な人物として描く。

それだけでは、少し物足りない。

『博士の異常な愛情』との違い

本作を観ていると、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を思い出す。

あちらも、国家の指導者や軍人たちの愚かさを、ブラックコメディとして描いた作品である。

しかも、世界の破滅という重大な問題を扱いながら、登場人物たちはどこか滑稽である。

本作にも、そうした共通性がある。

しかし、両者には違いもある。

『博士の異常な愛情』では、登場人物たちが真面目に行動すればするほど、状況が滑稽になっていく。

彼ら自身は、自分が喜劇の中にいるとは思っていない。

そのため、観客は笑いながらも、どこか恐ろしくなってくるのである。

一方、本作では、登場人物たちが最初から非常に誇張されている。

そのため、これは風刺なのだと、すぐにわかってしまう。

もちろん、そうした演出が悪いわけではない。

しかし、観客が笑う前に、監督の方が笑わせようとしているようにも感じられる。

この違いは大きい。

本当に恐ろしい喜劇というのは、登場人物が自分の愚かさに気づいていないところに生まれるのではないだろうか。

『バードマン』から何が変わったのか

イニャリトゥは『バードマン』でも、演劇と映画の関係を扱っている。

あの作品では、舞台裏や廊下を移動するカメラが、まるで一つの長回しで撮影されたように見える演出が特徴的だった。

観客は、舞台と現実の境界を移動しながら、主人公の心理へと入り込んでいく。

それに対して本作では、演劇と映画の関係が、さらに複雑になっている。

そもそも、観客が現実だと思っていたものが演劇だったという仕掛けがあるからだ。

しかも、二つの世界を区別するために、カメラの位置やレンズ、色彩、音響まで変えている。

技術的には、かなり凝ったことをしている。

しかし、その複雑さが映画の面白さにつながっているのかといえば、少し疑問も残る。

『バードマン』では、演劇と現実が混ざり合うこと自体が、主人公の心理と結びついていた。

ところが本作では、構造の複雑さが、前面に出すぎているようにも感じられる。

もちろん、映画の仕組みを観客に意識させることには意味がある。

しかし、その仕組みを理解することが、映画を楽しむための作業になってしまうのであれば、話は別である。

これほど凝った映画が、なぜ面倒くさいのか

本作の制作方法を調べると、驚くほど多くのことが計算されている。

35mmフィルムを横方向に走らせるビスタビジョンを使い、29mmの広角レンズで画面全体を見せる。

そのために大量の照明を用意し、巨大なセットを建設し、人物の位置や窓の高さまで細かく決めている。

さらに、劇中劇と現実を区別するために撮影方法を変え、俳優には長い稽古を重ねさせる。

録音の問題を解決するために、音響にも膨大な時間を費やしている。

技術的には、相当な映画である。

しかし、映画として面白いかと聞かれれば、また別の問題だ。

イニャリトゥは、あまりにも多くのことを表現しようとしているのではないだろうか。

権力者への風刺があり、気候危機があり、演劇と映画の関係があり、現実と虚構の問題もある。

さらに、俳優という存在そのものについてまで考えさせようとしている。

どれも興味深い主題ではある。

しかし、それらを一度に扱えば、必ず深い映画になるというわけではない。

むしろ、何を最も表現したいのかが、わかりにくくなってしまう場合もある。

本作は、映画の技術を知れば知るほど面白くなる作品だと思う。

ただし、その面白さは、映画そのものよりも、映画がどのように作られたのかという部分にあるのかもしれない。

映画の技巧は、どこまで必要なのか

『DIGGER/ディガー』は、技術的には非常に野心的な作品である。

ビスタビジョンの大きな撮影面積を利用しながら、広角レンズによって被写界深度を深くする。

そして、画面の隅々にまで情報を配置し、一枚の絵画のように見せる。

さらに、舞台と現実とを異なる撮影方法で描き分け、観客が映像をどのように受け取るのかという問題まで、物語に組み込んでいる。

こうした演出には、確かにイニャリトゥらしさがある。

ただし、あまりにも技巧的である。

カメラの位置、レンズ、色彩、編集、音響。そのすべてに意味が込められている。

それはそれで結構なことだが、意味を込めすぎると、かえって映画が窮屈になるのではないだろうか。

映画には、何も考えずに撮影したような映像が、思いがけない力を持つこともある。

しかし本作には、そうした偶然が入り込む余地がほとんどないように感じられる。

すべてが計算され、すべてに意味があり、すべてが監督の意図によって構成されている。

何とも息苦しい映画である。

ただ、その息苦しさを含めて、イニャリトゥという監督の個性なのだろう。

これほど手間のかかる撮影方法を選び、世界の破滅を描くブラックコメディを、巨大なセットと膨大な技術によって作り上げる。

普通なら、もっと簡単に作れそうなものだ。

しかし、そうしないところに、この監督の執念がある。

優れた映像を作ることと、優れた映画を作ることは、必ずしも同じではない。

本作は、そのことを改めて感じさせる作品だった。

とはいえ、こうした無茶な映画を、大きな予算を使って本当に作ってしまうところは面白い。

現在のハリウッドで、ここまで監督の個性が前面に出た映画を作るのは、そう簡単なことではないだろう。

もっとも、個性的であることと、面白いこともまた、別の話なのである。

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