急に具合が悪くなる

2026年映画

『急に具合が悪くなる』は、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂による同名の往復書簡集をもとに、濱口竜介監督が新たな物語を紡いだ人間ドラマ。ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が主演を務め、フランスを舞台に、介護施設の施設長と、がんを患う日本人演出家との出会いを描いている。日本・フランス・ベルギー・ドイツの4か国による合作映画。

あらすじ

パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルーは、入居者一人ひとりを尊重するケアを目指しながら、人手不足やスタッフとの意識の違いに悩んでいる。そんななか、がんの闘病を続ける日本人演出家・森崎真理と出会い、彼女が手がける一人芝居に勇気づけられる。

名前の響きが似ているという偶然もきっかけとなり、交流を深めていく二人。しかし、あるとき真理の体調が急に悪化する。病によって変わっていく日常のなかで、二人は言葉を交わし、それぞれが抱える不安や思いに触れていく。人を支えること、生きることを問い直しながら、その関係は次第に深い結びつきへと変わっていく。

会話そのものを映画の中心に置く演出

本作の最大の特徴は、劇的な事件や行動によって物語を進めるのではなく、人物同士の会話そのものを映画の中心に据えていることである。

濱口竜介は『ハッピーアワー』『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』などでも、長い会話を通して人間関係が変化していく過程を描いてきた。

本作でも、人物が言葉を交わし、相手の話に耳を傾け、ときには沈黙する時間が丁寧に描かれている。

重要なのは、会話が単なる情報伝達の手段ではないということである。

言葉の内容だけでなく、声の調子や間の取り方、相手の反応によって、それまで見えていなかった人物の内面が少しずつ現れてくる。

濱口は、こうした変化そのものを映画的な出来事として捉えている。

しかし、この方法は観客に相応の集中力を要求する。

会話の内容や人物の微妙な変化に関心を持てなければ、画面上では大きな出来事が起こらないまま、時間だけが経過していくように感じられる。

本作の演出は、会話の中に豊かなドラマを発見できる観客にとっては魅力的である一方、そうした方法に入り込めない観客にとっては、単調で冗長なものになりかねない。

長回しと時間の持続

本作では、人物が会話する時間や、介護施設で日常的な作業を行う時間が、比較的長いショットによって描かれている。

通常の映画であれば省略されるような動作や沈黙も、簡単には切り詰められない。

濱口は、物語を効率よく進めることよりも、人物がその場で過ごしている時間を観客にも体験させることを重視している。

例えば、介護という行為は、相手の身体や状態に合わせながら進めなければならないものであり、必ずしも予定どおりに終わるわけではない。

その時間を安易に省略しないことで、介護が単なる善意や献身ではなく、具体的な身体的労働であることを示している。

また、人物同士の関係が深まる過程についても、出来事を次々と重ねるのではなく、一緒に過ごす時間を積み重ねることによって表現している。

ただし、長い時間を見せることが、そのまま映画的な深みにつながるわけではない。

長回しは、人物の表情や行動に変化が生まれることで意味を持つ。しかし、観客がその変化を感じ取れなければ、単に間延びした場面として受け取られることもある。

本作では、そうした時間の積み重ねが重要な演出方法となっている一方、場面ごとの緊張や変化が弱く感じられる部分もある。

時間を省略しないという方法が、必ずしも観客の没入感を高めるとは限らないのである。

歩行によって表現される人物の関係

本作で特徴的なのが、人物たちが歩きながら会話を交わす場面である。

濱口は『ドライブ・マイ・カー』などで、車内という閉じられた空間を会話の舞台として利用してきた。しかし本作では、意識的に乗り物の中で会話をさせない方針を採用している。

その代わりに、パリの街を歩くという行為が、人物同士の交流を描く重要な手段となっている。

二人が歩きながら言葉を交わすことで、会話と身体の運動が同時に進行する。

また、歩行には目的地へ向かうという方向性があるものの、その途中では立ち止まったり、進む速度が変わったりする。

そうした身体の動きが、会話の流れや人物同士の心理的な距離と結びついている。

特に、明るい時間から日暮れへと移り変わる街並みの中を歩く場面では、風景の変化そのものが時間の経過を表している。

ここでは、編集によって時間を短縮するのではなく、実際に移動する身体と変化する光によって、時間の流れを感じさせている。

この演出は、人物と空間との関係を丁寧に描くという点で興味深い。

一方で、歩行と会話が長く続くことで、映像の変化に乏しいと感じられる場合もある。

人物の関係性を深めるための時間をどこまで描くべきなのか。その判断が、本作の長所と短所を分けることになっている。

多言語による会話と俳優の演技

本作では、日本語とフランス語という異なる言語を用いた会話が重要な役割を果たしている。

二人はそれぞれの母語を中心に言葉を交わしながら、互いの考えや感情を理解しようとする。

濱口は、異なる言語が同じ場面に存在する状況を、そのまま人物関係の一部として利用している。

興味深いのは、この方法が俳優の演技にも影響していることである。

濱口は撮影前に繰り返し本読みを行うことで知られるが、本作でも俳優たちは相手の言葉の意味だけでなく、その音や抑揚を身体的に覚えていった。

相手が自分の母語ではない言葉を話すため、俳優は台詞の意味だけに頼ることができない。

その分、表情や声の調子、身体の動きに注意を向ける必要がある。

濱口は、こうした状況によって、俳優が相手の存在により深く集中できると考えている。

つまり、多言語による会話は、国際共同製作という条件から生まれたものにとどまらず、演技そのものを変化させる演出方法にもなっている。

ただし、観客にとっては、長い会話を字幕で追い続けることになる。

俳優の声や表情を観察することと、字幕によって会話の内容を理解することを同時に求められるため、鑑賞上の負担は決して小さくない。

こうした複雑さも、本作が一般的な人間ドラマとは異なる鑑賞体験を生み出している理由の一つだろう。

介護を感情ではなく行為として描く

本作では、介護施設で行われる日常的な作業が、重要な演出要素となっている。

食事の介助、身体への接触、入居者との会話などが、単なる背景ではなく、具体的な人間関係を示すものとして描かれる。

一般的な介護を題材とする映画では、介護する側の献身や苦労、介護される側の悲しみなど、感情的な側面が強調されることが多い。

しかし濱口は、介護という行為そのものに注目している。

相手の身体に触れること、目を合わせること、声をかけること。そうした一つひとつの動作が、人間の尊厳や信頼関係に結びついている。

これは、言葉によるコミュニケーションを重視してきた濱口が、身体によるコミュニケーションへと表現を広げようとする試みとも捉えられる。

監督はインタビューで、言葉だけでは人間関係のすべてを表現することはできず、身体的な接触には言葉以上の意味があると語っている。

こうした考え方が、介護施設という舞台の選択にも反映されている。

一方で、介護の方法や理念について、人物の会話を通して詳しく説明する場面も存在する。

それらは作品の主題を理解するうえで重要だが、映画というよりも、ある思想や実践方法を紹介するための説明に近づいてしまう場合もある。

介護する人間の行動を映像で見せることと、介護について言葉で説明することは異なる。

本作では、その二つの方法が併用されているが、説明的な会話が長く続くことで、映像そのものが持つ表現力が後退しているようにも感じられる。

演劇と映画の境界

本作では、劇中に登場する演劇も重要な意味を持っている。

濱口はこれまでにも『ドライブ・マイ・カー』などで、演劇という行為を映画の中に取り入れてきた。

そこでは、舞台上で発せられる言葉と、登場人物が日常生活で交わす言葉との関係が重要な主題となっていた。

本作でも、演劇は単なる物語上の設定ではなく、人間同士の理解や、言葉によって世界を捉え直すための手段として描かれている。

舞台上では、現実とは異なる状況を作り出すことができる。俳優は自分ではない人物を演じながら、現実の人間関係では表現できない感情や考えを言葉にする。

濱口は、そのような演劇の性質を映画の中に持ち込んでいる。

しかし、ここには興味深い問題もある。

映画は本来、俳優の演技だけでなく、カメラの位置や構図、編集、音響などによって意味を生み出す芸術である。

ところが本作では、人物が語る言葉や、その場で演じられる行為に多くの時間が割かれる。

その結果、映画を観ているというよりも、長い演劇や思想的な対話を見せられているように感じる場面もある。

もちろん、それ自体が欠点というわけではない。

ただし、演劇的な表現を映画へと取り込むのであれば、カメラによって何が新しく生まれるのかという問題が重要になる。

会話や演技を丁寧に記録するだけでは、必ずしも映画独自の表現にはならない。

本作は、その境界を意識的に探ろうとする作品である一方、映像と会話の関係が十分に緊密であるかという点では、疑問も残している。

3時間16分という上映時間の意味

本作の上映時間は196分、3時間16分に及ぶ。

濱口はインタビューで、当初の脚本はさらに長く、編集によって短縮した結果が現在の上映時間であると説明している。

監督にとって、この長さは単なる物語の情報量によるものではない。

二人の関係を観客が理解するだけでなく、その関係を信じ、ともに時間を過ごしていると感じるために必要な長さだという。

確かに、映画において時間は重要な表現要素である。

登場人物の関係が深まる過程を数分の場面で説明することと、長い時間をかけて実際に見せることとでは、観客の受け取る印象は異なる。

また、本作のように病や死を主題とする映画では、時間そのものが特別な意味を持つ。

残された時間が限られている人物にとって、何気ない会話や日常の行為も、かけがえのないものになる。

その時間を簡単に省略しないという演出には、一定の説得力がある。

しかし、映画が長いことと、映画に深みがあることは同じではない。

長い時間をかけることによってしか表現できないものがある一方、長い時間をかけたにもかかわらず、観客に十分な変化や発見を与えられない場合もある。

濱口の演出は、人物同士の関係が少しずつ変化していく過程を重視している。しかし、その変化があまりにも緩やかであるため、観客によっては何も起こらないまま時間が過ぎていくように感じられる。

特に本作では、会話や日常の行為が長く続く一方、物語を前進させる明確な出来事は比較的少ない。

そうした演出を、人物の存在を深く捉えるために必要な時間と考えることもできる。しかし、単に冗長な構成であると受け取ることもできるだろう。

監督が必要だと考える上映時間と、観客が作品に没入し続けられる時間は、必ずしも一致しないのである。

説明的な会話と思想の映画化

本作には、介護のあり方だけでなく、社会の仕組みや資本主義の問題などについて、人物が長く議論する場面もある。

こうした会話は、単に登場人物の考え方を説明するものではなく、社会の中で人間がどのように生きるべきかという問いにつながっている。

濱口は、抽象的な思想や哲学的な問題を、人物同士の会話によって映画に取り込もうとしている。

しかし、思想的な内容を人物に語らせることが、そのまま映画的な表現になるわけではない。

観客が言葉の意味を理解することと、その言葉によって何かを感じることは異なる。

本作では、人物の考え方が丁寧に説明される一方で、その説明が長く続くことによって、物語の流れが停滞しているようにも感じられる。

特に、登場人物が社会や人間について論じる場面では、人物の自然な会話というよりも、作品が伝えようとする思想を代弁しているように見える場合がある。

もちろん、哲学的な議論を映画の中心に据えること自体は、一つの表現方法である。

しかし、言葉によって説明できる思想を、映画としてどのように表現するのかという問題は残る。

人物の発言によって観客を納得させるのではなく、映像や行動によって観客自身に考えさせる方法もあったはずである。

濱口は、言葉を映画の重要な素材として扱ってきた監督だが、本作ではその方法が、やや説明的な方向へ傾いているようにも感じられる。

映画における時間の密度

映画には、日常では意識することのない時間を、観客に感じさせる力がある。

何気ない仕草や沈黙、人物が一つの場所に留まる時間なども、カメラによって捉えられることで、特別な意味を持つ場合がある。

濱口は、そうした映画の性質を強く意識している監督なのだろう。

しかし、時間を見せることと、時間を感じさせることは必ずしも同じではない。

例えば、人物が長い時間をかけて会話を続けていても、その間に新しい発見や感情の変化がなければ、観客にとっては単に長い場面として感じられる。

反対に、わずかな時間しか描かれていなくても、人物の表情や空間の変化によって、長い年月の重みを感じさせることもできる。

映画における時間の密度は、上映時間の長さだけで決まるものではない。

むしろ、限られた映像の中にどれだけの意味や感情が含まれているかによって、その密度は変化する。

本作では、人物がともに過ごす時間を丁寧に描くことが優先されている。しかし、その丁寧さが、ときには映画としての緊張を弱めてしまっている。

会話を続けることによって人物の内面が見えてくる場面もあれば、すでに十分に伝わっている内容を、さらに言葉によって重ねているように感じられる場面もある。

こうした反復を、人物の存在を深く描くための方法と捉えることはできる。しかし、反復すること自体に意味があるのかという疑問も残る。

映画が長くなることには理由が必要であり、その理由は監督の意図だけでなく、映像そのものによって示されなければならないのではないだろうか。

濱口竜介の作家性と観客との距離

濱口竜介の映画は、一般的な娯楽映画とは異なる時間の使い方を特徴としている。

物語を効率よく進めることよりも、登場人物が言葉を交わし、相手の存在を理解しようとする過程を重視する。

また、劇的な出来事によって感情を高めるのではなく、日常的な会話や何気ない行為の中に、人間の複雑さを見いだそうとしている。

本作でも、その方法は一貫している。

長回し、多言語による会話、身体的なコミュニケーション、演劇的な表現など、これまでの濱口作品で見られた特徴が、さらに拡張されている。

しかし、作家性が明確であることと、映画として観客を引きつけることは別の問題である。

本作は、人物の関係が変化していく時間を丁寧に描くことで、人間の存在を深く捉えようとしている。

その一方で、極端に緩やかな展開と長い会話によって、観客との距離を広げてしまっている側面もある。

特に、長時間にわたって明確な変化が感じられない場面が続くと、観客は人物への関心を深めるどころか、作品そのものへの集中力を失ってしまう。

映画の時間を観客に委ねるという方法は、観客がその時間を共有しようと思えることによって、初めて成立する。

本作は、その意味で観客を選ぶ映画である。

濱口の演出方法に魅力を感じる観客にとっては、196分という長さが人物との距離を縮める時間になるのかもしれない。

しかし、そうでない観客にとっては、ただ緩やかな時間が延々と続くように感じられることもあるだろう。

長さと深さは同じではない

本作は、会話と時間の積み重ねによって、人間同士の関係を描こうとした作品である。

言葉だけでは伝わらない感情を、声や表情、身体的な接触によって表現しようとする試みには、濱口竜介らしい独自性がある。

また、介護という日常的な行為を通して、人間の尊厳や他者との関係を問い直すという視点も興味深い。

しかし、その演出方法が映画として十分に機能しているかについては、疑問も残る。

長い会話や日常の行為を丁寧に見せることが、必ずしも人物への理解を深めるとは限らない。

むしろ、会話によって多くのことを説明しようとするあまり、映像そのものが持つ力が弱まっているようにも感じられる。

映画は、言葉によって何かを伝えるだけの媒体ではない。

人物の表情、空間の広がり、光の変化、カメラの位置、編集によって生まれる時間の感覚など、言葉に頼らずに表現できることも多い。

濱口は、そうした映画の可能性を十分に理解している監督である。しかし、本作では言葉と時間の積み重ねに重きを置くことで、かえって表現の幅を狭めてしまっているようにも思われる。

もちろん、わかりやすい物語や刺激的な展開だけが映画の価値ではない。

静かな映画にも魅力はあるし、長い時間をかけることによってしか表現できないものもある。

しかし、長い時間を描くのであれば、その時間を観客に体験させるだけの映像的な魅力や緊張感が必要である。

本作には、濱口竜介の作家性が明確に表れている。しかし、その方法が徹底されることで、かえって映画としての求心力が弱まっている印象も残る。

監督にとって必要な時間が、必ずしも観客にとって必要な時間になるとは限らない。

映画において重要なのは、どれだけ長く人物を見つめるかということだけではない。その時間の中で何を発見し、何を感じさせることができるのかということである。

長く見せることと、深く見せることは同じではない。

本作は、時間をかけて人間を描くことの可能性を追求した作品であると同時に、その方法が持つ限界についても考えさせる作品である。

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