『マリヤのお雪』は、モーパッサンの短編『脂肪の塊』をもとに、舞台を西南戦争下の日本へ移した溝口健二監督作品。戦火を逃れる乗合馬車に、裕福な人々と二人の娼婦・お雪とおきんが乗り合わせる。同乗者たちは二人を蔑むが、旅の途中で危機に直面すると、その助けを頼るようになる。混乱のなかでも他者を思いやるお雪の姿を通して、身分や体面に隠された人間の身勝手さと、社会の底辺に生きる女性の慈愛を描く。
溝口映画の中で最も古いトーキー映画と思われるが、音声が聞き取りにくくてイマイチ話が呑み込めなかった。西南戦争時に戦火を逃れて脱出するが捕らえられ、自分たちが助かりたいばかりに官軍の隊長に娘を差し出そうとする町の名士に憤慨するお雪が、身代わりに乗り込んでいく。
ラストに後期溝口らしい固定カメラで長回しのリアリティが感じられ、いよいよかな、とか思ったりするが映像が古くて綺麗ではないのが残念。
山田五十鈴の存在感は折鶴お千の方が際立っている。
長回しと奥行き
本作では、カメラを固定したまま人物を動かし、その位置関係を変化させることで心理や緊張を表現する演出が見られる。
特に重要なのは、官軍の将校・朝倉の部屋に、おきんが入り込む場面である。
この場面では、約90秒に及ぶ長回しが使われている。カメラはやや高い位置から室内全体を捉え、おきんが朝倉の机の周囲を歩き回り、酒を飲み、椅子に腰掛けるまでの動きを連続的に見せる。
朝倉は彼女を相手にしようとせず、おきんは身体の動きや距離の取り方によって相手の関心を引こうとする。カメラは二人の表情を交互に切り返すのではなく、同じ空間の中で展開する心理的な駆け引きを捉えている。
その後は視点を切り替えながら、おきんを画面の奥に、朝倉を手前に配置するなど、人物の位置関係を変化させていく。
こうした演出は、人物の感情をクローズアップによって直接説明するのではなく、画面内の距離や身体の動きによって心理を表現するという、溝口独自の演出の形成を示している。
襖や障子を利用した視線の演出
朝倉の部屋の場面では、襖や障子によって人物の姿を部分的に隠す構図も重要である。
おきんが朝倉を誘惑しようとするが、朝倉は障子を閉めて彼女を拒絶する。しかし、その後、おきんが物音に気づいて障子を開けると、奥の部屋で娘が朝倉の前に立って泣いている姿が見える。
この場面では、娘の姿が広く開かれた画面に映し出されるのではなく、障子とおきんの肩の間に生まれた狭い空間を通して示される。
観客はおきんと同じように、限られた視界から新たな出来事を発見することになる。
こうした演出では、人物をすべて見せることよりも、何を隠し、どの瞬間に見せるかという視覚的な構成が重視されている。
襖や障子によって画面を分割し、奥の空間に人物を配置する手法は、日本家屋の構造を映画表現に取り込んだものであり、後年の『残菊物語』や『元禄忠臣蔵』にも通じる。
また、画面内に複数の奥行きをつくり、観客の視線を誘導する構図には、ジョセフ・フォン・スタンバーグの映画を思わせる造形的な特徴も認められる。
クローズアップとカット割りの併用
後年の溝口作品では、クローズアップを抑えて人物と空間を一体として見せる演出が顕著になる。しかし、本作では比較的大胆なクローズアップや、人物の視線を結びつけるカット割りも使われている。
特に乗合馬車の場面では、おきんの顔を正面から大きく捉えるショットが印象的である。
周囲の乗客が酌婦である彼女たちを軽蔑する中、おきんは挑戦的な視線を向ける。カメラはその表情を正面から捉え、彼女の反抗心を直接的に表現している。
一方、お雪は横方向から捉えられ、控えめな態度が強調される。二人の性格の違いが、カメラの角度や距離によって明確に示されている。
また、カットが切り替わるたびに撮影角度が大きく変化し、一般的な映画で重視される視線の連続性が必ずしも守られていない。こうした大胆な構図の変化は、登場人物の対立や緊張を強調する効果を生んでいる。
さらに、お雪と朝倉が心を通わせる場面では、二人の視線を結びつける切り返しが効果的に用いられる。
本作では、後年の溝口作品に見られる長回し中心の演出と、クローズアップやカット割りによる直接的な表現が共存している。
陰影の強い照明と暗い画面
撮影を担当した三木稔による、陰影の強いモノクロ映像も重要な特徴である。
人物の顔を均一に照らすのではなく、光と影を大きく対比させることで、画面に不安や緊張を生み出している。
特に室内の場面では、人物が暗がりの中に置かれることが多く、表情が必ずしも明確に見えない。照明によって人物を背景から浮かび上がらせる一方、影の中へ姿を隠すことで、心理的な不安定さを表現している。
こうした撮影には、ドイツ表現主義映画やジョセフ・フォン・スタンバーグ作品を思わせる造形的な特徴が認められる。
また、人物を画面の手前と奥に配置し、その間に暗い空間を挟むことで、奥行きと心理的な距離を同時に表現している。
三木稔による陰影の強い撮影は、『浪華悲歌』や『愛怨峡』にも引き継がれていく。
乗合馬車を利用した階級社会の表現
物語の主要な舞台となる乗合馬車は、異なる社会階層の人々が閉じ込められた小さな社会として機能している。
乗客には裕福な商人や町の名士たちがいる一方、酌婦のお雪とおきんは低い身分の女性として軽蔑される。
溝口は、馬車の限られた空間の中に人物を配置し、座る位置や視線の方向、身体の向きによって階級的な関係を表現している。
特に印象的なのは、食料を持たない乗客たちが、お雪の差し出した食べ物を受け取る場面である。
それまで彼女たちを軽蔑していた人々が、自分たちの利益のためには平然とその善意に頼る。溝口はこうした態度の変化を、登場人物の配置や表情、カット割りによって皮肉に描いている。
この場面では、上品に振る舞う女性と草を食べる馬を連続して映すことで、彼女の虚栄心を風刺する表現も用いられている。
また、お雪と桜の花を結びつける構図によって、周囲の人々よりも彼女の方が精神的に気高い存在であることが示唆される。
社会的に高い身分の人間が必ずしも高潔ではなく、蔑まれている女性の方に人間的な尊厳が存在するという逆転が、映像によって表現されている。
戦闘場面と活劇的な演出
本作は、溝口作品としては珍しく、銃撃戦や爆発を伴う戦闘場面が描かれている。
西南戦争を背景としているため、物語の前半では軍隊の行動や戦闘による混乱が比較的大きな比重を占めている。
冒頭では、戦争によって荒廃した人吉の街が描かれる。人気のない街路に蓄音機の音だけが響く光景は、戦争によって日常生活が失われたことを印象づける。
こうした場面では、静的な人物描写とは異なり、短いショットや場面転換によって状況が説明されている。
そのため、作品全体には戦争映画や活劇を思わせる部分と、女性の心理を中心とするメロドラマ的な部分が混在している。
この演出上の不統一は、本作の弱点ともいえるが、溝口がさまざまな映画技法を試みていた時期の特徴として捉えることもできる。
女性の献身と社会的な差別
主題には、溝口が繰り返し描いてきた女性の犠牲と、男性中心社会の矛盾が認められる。
お雪とおきんは、社会的には軽蔑される立場にある。しかし、危機に直面したとき、自分たちの利益だけを考える名士たちとは異なり、他人を救おうとする。
二人の女性像は対照的である。おきんは気が強く、周囲の差別に反抗する。一方、お雪は穏やかで献身的な性格を持ち、他人のために自分を犠牲にすることをいとわない。
この対照的な女性の配置は、翌1936年の『祇園の姉妹』を思わせる。ただし、『祇園の姉妹』で山田五十鈴が演じるおもちゃは、献身的なお雪とは反対に、男性への従属を拒絶する女性である。
本作では、差別される女性たちの方が人間的に優れているという逆転によって、社会的な身分と人間の尊厳が必ずしも一致しないことを描いている。
しかし、お雪の献身は批判の対象であると同時に、美徳として理想化されてもいる。
女性の犠牲を生み出す社会を批判しながら、その犠牲の中に女性の気高さや美しさを見いだすという矛盾は、後年の溝口作品にも繰り返し現れる。
男女の別れを空間によって表現した結末
物語の終盤では、お雪と朝倉の間に恋愛感情が芽生える。しかし、二人の社会的な身分の違いによって、その関係が成就することはない。
お雪は自分の幸福よりも朝倉の将来を優先し、彼を逃がすことを選ぶ。
この別れの場面では、溝口はカメラを固定し、襖や床の高さによって分けられた空間の中に二人を配置している。
朝倉が去っていく方向には外の世界が広がり、川へとつながっている。一方、お雪は荒廃した家にとどまる。
二人の身体の動きや位置関係によって、未来へ向かう男性と、その場に残される女性という対照が表現されている。
ここでは、別れの悲しみをクローズアップで強調するのではなく、二人を隔てる空間そのものによって悲劇を描いている。
これは後年の『残菊物語』や『近松物語』にも通じる、人物の運命を空間の中に表現する溝口らしい演出である。
また、結末ではお雪とおきんが荒廃した街に残される。男性を救った女性たちが、社会の中で報われることなく取り残されるという構図には、溝口の女性観が鮮明に表れている。
総評
『マリヤのお雪』は、後年の溝口作品に見られる長回しや奥行きのある構図が形成されていく過程にある作品である。
特に、人物の動きによって画面内の心理的な関係を変化させる演出や、襖や障子を利用して視界を限定する構図には、溝口独自の映画美学がすでに認められる。
一方で、クローズアップやカット割り、戦闘場面など、多様な技法が混在しており、後年の作品ほど演出の一貫性は高くない。
また、物語の前半では階級社会の偽善に対する批判が中心となるが、後半ではお雪と朝倉の悲恋へと重点が移る。そのため、社会批判とメロドラマという二つの方向性が、必ずしも十分に結びついているわけではない。
ただし、この構成の変化こそ、初期の溝口が独自の映画表現を模索していたことを示しているとも考えられる。
本作は、溝口が女性の犠牲という主題を、独自の空間表現や長回しと結びつけていく過程にある作品である。 完成度では『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』に及ばないものの、階級社会への批判、女性の献身、陰影の強い撮影、人物配置による心理表現など、後年の溝口作品を特徴づける要素が数多く認められる。



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