花緑青が明ける日に

2026年映画

2026年3月6日に公開された日仏共同制作の長編アニメーション映画。日本画家としても活動する四宮義俊が原作・脚本・監督を務め、フランスの気鋭スタジオ「Miyu Productions」などとの合作により制作された。

本作は日本画の技法をベースにしつつ、セル画やストップモーション、特撮など多彩な映像表現が融合している点が特徴で、第76回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門への正式出品や、2026年度アヌシー国際アニメーション映画祭での長編コントルシャン部門審査員賞受賞など、国内外で高い評価を獲得している。

舞台は、町の再開発によって翌日に立ち退きを迫られている創業330年の老舗花火工場「帯刀(たてわき)煙火店」。
そこで育った帯刀敬太郎は、蒸発した父に代わり、幻の花火「シュハリ」を完成させようと独りで工場に立てこもり奮闘していた。
夏の終わりの日、過去の事件をきっかけに東京へ離れていた幼馴染の式森カオルが4年ぶりに地元へ戻ってくる。市役所に勤める敬太郎の兄・千太郎から立ち退きの期限を告げられた彼らは、失われた時間と絆を取り戻すようにぶつかり合いながらも、幻の花火の完成と打ち上げを巡る驚きの計画を立て始める。その計画の鍵を握るのは、美しい青色の顔料「花緑青(はなろくしょう)」だった。

面白いのは、日本画のような絵柄そのものよりも、遠近法をわざと狂わせたり、絵の具を反転させて花火を作ったり、デジタルでできることをわざわざアナログで撮影したりしていること。

しかも監督は、あえて画面の完成度を均一にしようとしていない。そこに、この作品の作家性があるように思う。

正しい遠近法なんて、どうでもいい

本作の映像でまず注目したいのは、遠近法の扱い方である。

四宮義俊は、背景のパースを意図的に狂わせているという。

普通、建物を描くときには消失点を設定し、それに従って柱や壁、道路などの形を決めていく。3DCGで背景を作れば、そうした遠近法は基本的に自動で処理される。

ところが、四宮はそれが気に入らないらしい。

実際、本作には一つの画面の中で、異なる消失点を持つ空間が組み合わされている場面がある。

カオルがベランダにしゃがんでいる場面では、造成地とベランダの消失点が一致していないという。

遠近法としては間違っている。

しかし、その方が画面として面白いのである。

例えば、実際のカメラで撮影する場合、一つの画面の中に広角レンズと望遠レンズの遠近感を同時に存在させることは、通常できない。

ところが絵であれば、それができてしまう。

手前のベランダは広角レンズで見たように描き、遠くのソーラーパネルは望遠レンズで見たように圧縮する。

そんな無茶なことをしても、絵として成立していればよいわけだ。

四宮は、3Dモデルを使った帯刀家についても、柱をわざと曲げたり、建物を内側にすぼませたりしているという。

正確な建築物を描くのではなく、少し歪んだ建築物を描く。

それによって、長い年月を経た建物の不安定さや、独特の存在感を表現しているのである。

これは、写真や実写映画にはない自由だろう。

現実を正確に再現することが、必ずしも美しい画面につながるわけではない。

むしろ、正確さを捨てることで、初めて見えてくるものもある。

本作の遠近法は、そのことをよく示している。

3DCGで作ってから、わざわざ歪ませる

さらに面白いのは、帯刀家には実際に3Dモデルが存在していることだ。

最初から手描きで作ればよさそうなものだが、建物の構造を把握するために3Dモデルを用意している。

ところが、それをそのまま使うと、きれいすぎるのである。

柱は真っ直ぐだし、壁は正確につながっている。建物の構造にも矛盾がない。

そりゃそうだ。3Dモデルなのだから。

しかし、実際に映画の背景として使ってみると、どうも硬い。

そこで、3Dモデルを参考にしながら、カットごとに構図を調整し、建築物を歪ませていく。

何とも面倒な話だ。

正確に作ったものを、わざわざ不正確に作り直しているのである。

ただ、ここには大きな意味がある。

3DCGは、現実の空間を合理的に再現することには向いている。しかし、絵画としての構図が必ずしも合理的である必要はない。

例えば、ある柱を少し傾けることで、人物を画面の中心へ誘導できるかもしれない。

建物の奥行きを少し圧縮すれば、実際よりも窮屈な空間に感じられるかもしれない。

画面の中では、その方が効果的な場合もある。

つまり、建築物を正確に描くことと、その場所を印象的に見せることは別の問題なのだ。

本作では、3DCGを使いながら、その正確さに支配されないという方法が採られている。

デジタル技術を否定するのではなく、必要なところだけ使い、最後は人間の感覚で修正する。

なかなか贅沢な使い方ではないだろうか。

キャラクターの輪郭線を薄くする理由

本作では、人物の輪郭線が比較的薄く描かれている。

これは単なる絵柄の問題ではない。

四宮によれば、背景美術とキャラクターとの密度の違いを調整するため、意図的に輪郭線を薄くしているという。

一般的なセルアニメーションでは、人物の輪郭線がはっきりしている。

背景がどれほど細かく描かれていても、人物の輪郭が明瞭なので、観客はキャラクターを見失わない。

しかし、それは同時に、人物と背景が別々の素材であることを強調することにもなる。

本作では、できるだけ両者を一つの絵として見せようとしている。

そのために輪郭線を弱め、人物を背景の中へ溶け込ませているのである。

ただし、すべてを同じ質感にしているわけではない。

背景には手描きの筆致が残り、人物にはセルアニメーションらしい単純化された表現も残されている。

つまり、異なる描き方を完全に統一するのではなく、違いを残したまま一つの画面に成立させようとしている。

ここが面白い。

普通なら、背景と人物の質感が違えば、どちらかを修正して統一しようとする。

しかし本作では、その違い自体が映像の特徴になっている。

実写映画でいえば、俳優と背景が別々の画材で描かれているようなものだ。

それでも一つの世界に見えるのだから、不思議な話である。

背景なのか、作画なのか

アニメーションでは通常、動かないものを背景美術として描き、動くものを作画として描く。

もちろん例外はあるが、制作工程としては、そのように分業する方が合理的である。

しかし本作では、その区別をかなり曖昧にしている。

例えば、カオルが工事現場用の柵をまたぐ場面。

柵の奥側の鉄棒は背景美術で描かれているが、手前側の鉄棒は作画によって描かれているという。

なぜそんな面倒なことをするのか。

カオルが柵をまたいだとき、その振動によって鉄棒をわずかに動かしたかったからだ。

たったそれだけのことである。

しかし、このわずかな動きが重要なのだろう。

人物が何かに触れれば、触れられた物体も反応する。

現実では当たり前のことだが、アニメーションでは、そうした反応も意図的に作らなければならない。

しかも、柵全体を作画にしてしまえば、背景美術との質感が変わってしまう。

だから、動かす必要のある部分だけを作画として分離しているのである。

ここまでくると、もはや背景と作画の区別にあまり意味がない。

四宮にとって重要なのは、どの部署が描くかではなく、最終的にどのような画面になるかということなのだろう。

制作工程としては非合理的かもしれない。

しかし、そうした非合理性によってしか作れない映像もあるのだ。

草木の揺れ方が全部違う

本作の植物の表現も、かなり変わっている。

普通、アニメーションで草木を揺らす場合、同じ動作を繰り返すループアニメーションを使ったり、撮影処理で画像を変形させたりする。

ところが本作では、草木の揺れ方に複数の方法を組み合わせている。

実際に一枚ずつ中割りを描いている部分もあれば、モヤのような素材を重ねて揺らしている部分もある。

さらに、After Effectsのコーナーピンという機能によって、画像の四隅を変形させて動かしているものもあるという。

つまり、同じ画面の中で、異なる仕組みのアニメーションが同時に動いているのである。

普通なら、どれか一つの方法に統一したくなるところだ。

しかし四宮は、そうしなかった。

現実の自然は、すべてが同じように動くわけではない。

風を受けても、草と木では揺れ方が違う。葉の大きさや枝の硬さによっても動きは変わる。

それぞれが微妙に異なる動きをしているからこそ、自然らしく見える。

本作では、その不規則さを意図的に作っているわけだ。

さらに、遠くを飛ぶ鳥や雨、風、草などの表現については、通常の動画・仕上げ工程に回さず、四宮自身がCLIP STUDIO PAINTで描き足しているものも多いという。

こうなると、もはや監督というより、撮影の最終段階まで絵を描き続けている画家である。

植物については、細かく描きすぎるとかえって雰囲気が失われるとも語っている。

確かに、葉っぱを一枚ずつ正確に描けば、必ず自然に見えるというものでもない。

むしろ、適当に描いた線の集まりの方が、森の複雑さを感じさせる場合もある。

自然を再現するために、自然を正確に描きすぎない。

これも、なかなか面白い考え方だ。

花火を青く描くために、赤い絵の具を使う

本作で最も奇妙なのは、花火の制作方法かもしれない。

何しろ、青い花火を描くために、わざわざ赤い絵の具を使っているのである。

普通なら青い絵の具で描けばよいと思うのだが、どうやらそう簡単な話ではないらしい。

四宮は、2024年の「ひろしまアニメーションシーズン」で開催されたワークショップで、参加者たちに花火の原画を制作してもらった。

その方法が変わっている。

白い紙に印刷された花火の原画を、赤系統の絵の具で塗ってもらう。そして、その素材をデジタル上で色反転させるのである。

すると、赤い絵の具が青い光へと変化する。

しかも、赤やオレンジ、紫がかった色など、もとの絵の具に含まれる微妙な違いが、反転後の青色にも現れる。

四宮によれば、その青色は、最初から青い絵の具で描こうとしても、なかなか作り出せないものだったという。

なるほど、そういう方法があったのか。

さらに、もう一つの方法も使われている。

黒い紙に針で小さな穴を開け、その裏側から光を当てるのである。

すると、無数の小さな穴から光が漏れ、花火の火の粉のように見える。

この二つの素材を合成して、花火が消えていく場面を制作している。

何とも原始的な方法だ。

しかし、考えてみれば理にかなっている。

花火とは、光の集まりである。

ならば、絵の具だけで光を描くのではなく、本当に光を通して撮影した方がよい場合もある。

しかも、人間が一つひとつ開けた穴の大きさや位置には、わずかな不規則さがある。

その不規則さが、CGで整然と配置された粒子とは違う表情を生み出している。

デジタルで何でも作れる時代に、紙へ針を刺して花火を作る。

ずいぶん遠回りな方法だが、その遠回りにこそ価値があるのだろう。

花火にはCGを使っていない

すべて手描き、あるいはアナログ素材を撮影したものだという。

もちろん、完成までの工程ではデジタル合成や色の反転などが行われている。

つまり、デジタル技術を使っていないという話ではない。

花火そのものの運動や光を、CGの粒子シミュレーションによって生成していないということだ。

ここは区別して考える必要がある。

現在なら、CGで花火を作ることは十分に可能だろう。

粒子を放射状に飛ばし、重力によって落下させ、時間とともに発光を弱めていく。

物理的な動きを再現するのであれば、むしろCGの方が合理的かもしれない。

しかし、それでは現実の花火に近づくだけなのだ。

四宮が作りたかったのは、必ずしも現実の花火そのものではない。

花火を見たときに感じる光の強さや、色彩の広がり、消えていく瞬間の美しさなのだろう。

そのために、紙に穴を開け、絵の具を反転させ、実際の光を撮影している。

ある意味では、現実の花火を再現するために、現実の物理法則とは異なる方法を使っているのである。

しかも四宮は、自宅で扇風機に光を当て、回転する羽根に残る光を撮影して、花火の素材として利用することまで試みたという。

そこまでやるかと思ってしまう。

ただ、そうした実験から予想もしなかった映像が生まれることもあるのだろう。

本作の花火は、コンピューターで計算された映像というより、さまざまな素材を実際に撮影した映像の集合体なのである。

マルチプレーンカメラという古い技術

本作では、水中や宇宙、花火などの特殊な場面に、マルチプレーンカメラが使われている。

これは、複数の平面に描かれた絵を重ね、それぞれの位置や距離を変えながら撮影する方法である。

かつてディズニーのアニメーションなどでも使用されていた技術で、背景と人物の間に奥行きを生み出すことができる。

もっとも、現在なら同じような効果をAfter Effectsなどで再現することも可能だ。

画像を複数のレイヤーに分け、奥行きを設定し、仮想カメラを動かせばよい。

ところが本作では、本当に複数の素材を重ね、実物のカメラで撮影している。

なぜ、そんなことをするのか。

四宮によれば、デジタルで作られた光のにじみと、実際のカメラで撮影された光のにじみには違いがあるという。

例えば、透明な素材を何枚も重ねた場合、光はそれぞれの素材を通過し、反射や屈折を繰り返す。

さらに、カメラのピント位置によって、手前と奥の素材のボケ方も変化する。

こうした複雑な現象を、すべてデジタルで再現することも不可能ではない。

しかし、それには相当な調整が必要になる。

本物の光を使えば、そうした現象が自然に生まれるわけだ。

本作では、この古い撮影技術が、あえて使われている。

新しい表現を作るために、古い技術へ戻る。

その発想が面白い。

水中のボケは、本物のカメラで作る

水中の場面では、さらに変わった方法が採られている。

四宮がCLIP STUDIO PAINTで描いた原画を、一度紙に印刷する。

その印刷物に透明なジェルなどを加え、半立体的な素材として加工する。

そして、それをマルチプレーンカメラで撮影するのである。

つまり、デジタルで描いた絵を、わざわざアナログの物体へ戻しているわけだ。

普通なら逆だろう。

アナログで作ったものをデジタル化するのが、現在の映像制作では一般的である。

しかし本作では、デジタルで描いたものを物理的な素材へ変換し、それをもう一度カメラで撮影している。

何とも面倒なことをしている。

ただ、その結果として、実際のカメラでしか生まれないボケや光の柔らかさが加わっている。

水中では、物体の輪郭が曖昧になり、光も複雑に変化する。

それをすべてデジタルのエフェクトで表現しようとすると、どこか見慣れた映像になってしまう場合がある。

本作では、あえて実物の素材を使うことで、予測しきれない光の変化を取り込んでいる。

しかも、透明なジェルが作り出す泡のような表現には、わずかな立体感がある。

平面のアニメーションに、本物の物体の厚みが入り込んでいるのである。

こうした映像は、単に手描きでもCGでもない。

両者の間に、実際に撮影された物質が存在している。

このあたりまでくると、アニメーションというより、実験映画に近い感覚もある。

酔っ払った場面だけ、別の映画になる

本作には、突然クレイアニメーションが登場する場面がある。

千太郎が酔っ払う場面だ。

このストップモーションを担当したのは、フランスのヴィクトル・アジュランである。

興味深いのは、単に絵を人形に置き換えたわけではないことである。

実際の手が登場したり、クレイで作られた人形が動いたりと、通常の2Dアニメーションとはまったく違う質感になっている。

しかも、その実写の手は、制作を担当したアジュラン自身の手だという。

つまり、突然、フランス人の手が日本のアニメーションの世界に入り込んでくるわけだ。

何とも奇妙な話である。

また、日本人の人物を表現しているにもかかわらず、ジェスチャー

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