シラート

2026年映画

『シラート』は、モロッコの砂漠を舞台に、行方不明の娘を捜す父と息子の旅を描いたロードムービー。オリベル・ラシェが監督を務め、セルジ・ロペスが主演、製作にはペドロ・アルモドバルが名を連ねる。広大な荒野と鳴り響くダンスミュージックのなかで、家族を求める旅が予測できない展開をたどっていく。第78回カンヌ国際映画祭では審査員賞を受賞した。

あらすじ

レイブパーティーに参加したまま消息を絶った娘を捜すため、ルイスは幼い息子エステバンとともにモロッコを訪れる。砂漠の野外レイブ会場で娘の写真を見せて回るものの、その行方につながる確かな手がかりは得られない。

別のレイブに娘がいるかもしれないと考えたルイスは、次の会場へ向かう参加者たちを追い、息子とともに砂漠の奥地へと車を走らせる。しかし、人里を離れた荒野での移動は、次第に過酷さを増していく。娘との再会を願って始まった旅は、やがて一行を思いもよらない状況へと導いていく。

わかりやすいロードムービー。というか、それは確定路線なので破壊するのは無理なのだ。たとえ奇抜なストーリーで誤魔化そうが何をしようが無駄な結果になるばかりか、薄っぺらい内容にしかならない。よくわかんない賞をもらってるみたいだけど。

でもいつか、ロードムービーを壊す天才があらわれるかもしれないと期待しながら観ている。

ロードムービーという形式の限界

結局のところ、ロードムービーそのままで、それ以上でもそれ以下でもない。

娘を捜すために旅に出て、見知らぬ人々と出会い、さまざまな出来事に遭遇する。移動することで物語が進み、その過程で登場人物の状況が変化していく。実にわかりやすいロードムービーの構造である。

オリベル・ラシェ監督は、そこに電子音楽や宗教的な象徴、突然の悲劇などを盛り込み、従来とは違う映画を作ろうとしているように見える。

しかし、いくら奇抜な出来事を用意しても、肝心の構造は何も変わっていない。

そもそもロードムービーというのは、移動することによって映画が成立するという、極めて単純で強固な形式なのだ。旅の途中で何が起きようが、目的地を失おうが、登場人物が死のうが、移動によって物語が進む限り、その形式から逃れることはできない。

本作も例外ではない。むしろ、予測できない展開を次々と盛り込むことで、かえってロードムービーの典型的な構造が浮き彫りになっている。

物語を壊すことと、映画の形式を壊すことはまったく違う。どうやら本作が壊そうとしているのは前者であって、後者ではないようだ。

16mmフィルムによる砂漠の映像

撮影にはスーパー16mmフィルムが使われている。撮影監督はマウロ・エルセ。砂漠の乾いた大地や岩肌、強烈な日差しが、フィルム特有の粒子感によって表現されている。

広大な砂漠の中を小さな車が走る。人物は風景の中に埋もれるように配置され、人間の存在がいかに小さいかを感じさせる。

確かに美しい映像である。

しかし、こうした映像はこれまでのロードムービーでも散々見てきたものではないだろうか。

広大な自然の中に小さな人間を置けば、孤独や無力さが表現できる。それはわかる。しかし、もはや定番ともいえる方法であり、それ自体に新鮮さはない。

16mmフィルムを使ったからといって、映画が新しくなるわけでもない。

むしろ気になるのは、こうした映像の美しさが、映画の内容まで深いものに見せてしまうことである。

砂漠を美しく撮ることと、砂漠を舞台に新しい映画を作ることは別の話なのだ。

音響によって作られる高揚感

本作で最も特徴的なのは、テクノミュージックを中心とした音響である。

巨大なスピーカーから鳴り響く重低音。反復するリズムに合わせて踊る人々。冒頭から観客を音の中に引きずり込んでいく。

音楽を担当したのは、カンディング・レイことダヴィッド・ルトゥリエ。

単に映像に音楽を付けるのではなく、音楽そのものを映画の重要な要素として利用している。砂漠を移動する場面でも、環境音と電子音楽が混ざり合い、独特の緊張感を生み出している。

この音響設計はなかなか面白い。

ただ、重低音で身体を刺激すれば、それだけで何か特別な映画を観ているような気分になるものだ。

問題は、その感覚が映画の内容とどこまで結びついているかである。

音楽によって高揚感を生み出すことはできるし、不安や緊張を強調することもできる。しかし、音楽がなくなったとき、その場面にどれほどの力が残るのか。

本作は音響によって相当な部分を支えられている。逆にいえば、それほど強い音響を必要とする映画でもある。

映像と音楽を組み合わせる技術は認めるが、それによって映画の内容まで豊かになっているとは思えない。

非職業俳優が持つ存在感

主演のセルジ・ロペスを除き、旅をともにする主要な人物たちの多くには、実際のレイブ文化に関わる非職業俳優が起用されている。

彼らの姿は確かに印象的である。

日焼けした肌、刺青、身体に刻まれた生活の痕跡。わざわざ過去を説明しなくても、それぞれが異なる人生を歩んできたことが感じられる。

演技をしているというより、そこに存在しているという印象が強い。

こうした人々を撮影することは、映画に現実の質感を与えるうえで効果的だろう。

ただし、それは被写体が持っている魅力でもある。

興味深い人物を見つけてカメラの前に立たせるだけで、映画が深くなるわけではない。人物の外見から想像できる人生と、映画の中で実際に描かれる人生は別のものだからだ。

本作では、彼らの身体的な存在感に比べて、人物そのものの掘り下げ方はそれほど深くない。

強烈な外見や独特の雰囲気が、その不足を補っているようにも感じられる。

突然の悲劇は映画を新しくするのか

本作では、旅の途中で突然の悲劇が起こる。

それまでの物語の流れからは予測しにくい出来事であり、観客は否応なく驚かされる。

確かに衝撃的である。

しかし、突然誰かを死なせれば、それだけで映画が面白くなるのだろうか。

普通の映画なら、重要な出来事の前には何らかの伏線が用意される。観客は無意識にその兆候を読み取り、次に何が起こるのかを予測する。

本作は、そうした約束事を無視することで、観客の予測を裏切ろうとしている。

だが、予測できないことが起こるのと、優れた展開が生まれるのとは違う。

何の前触れもなく重大な出来事が起こってよいのなら、脚本はいくらでも奇抜なものにできる。必要なのは観客を驚かせることだけになってしまう。

そのような方法に頼れば、物語の必然性など必要なくなる。

本作の突然の悲劇も、驚きは与えてくれる。しかし、その驚きが過ぎ去った後に何が残るのかと考えると、どうも物足りない。

意外な展開を作るために物語を壊してしまうのでは、本末転倒ではないだろうか。

砂漠に与えられた宗教的な意味

題名の「シラート」は、イスラームの終末論に登場する、地獄の上に架かる橋を意味している。

人間が生と死の境界を渡るという宗教的な象徴であり、砂漠を進む登場人物たちの旅にも、その意味が重ねられている。

なるほど、そういうことなのだろう。

しかし、危険な旅を人生の試練に重ね合わせることなど、昔からいくらでも行われてきた。

砂漠を精神的な空間として扱うことも、別に珍しいことではない。

宗教的な象徴を与えれば、単純な物語でも何か深遠な意味があるように見える。もちろん、本当に深い意味を持つ作品もあるのだろうが、象徴が存在することと、それが映画として機能していることは別である。

本作では、旅が進むにつれて娘を捜すという当初の目的が薄れ、生き延びることそのものが問題になっていく。

しかし、こうした展開もロードムービーではおなじみのものである。

目的地を失い、旅そのものに意味が生まれる。そこに宗教的な解釈を加えれば、一見すると壮大な物語になる。

だが、結局のところ、やっていることは変わらない。

宗教的な象徴によって映画を説明することはできても、それによって映画そのものが新しくなるわけではないのだ。

戦争の気配と説明されない世界

物語の背後には、戦争や社会の崩壊を予感させる状況がある。

軍隊が登場し、人々の移動が制限され、世界が何か大きな混乱に向かっていることが断片的に示される。

しかし、具体的に何が起こっているのかは詳しく説明されない。

こうした演出は、不安を生み出すうえでは効果的である。

観客にも登場人物にも世界の全体像がわからない。何が起きるかわからない状況の中で、旅を続けなければならない。

ただ、これもよくある方法である。

すべてを説明しないことで不気味さを生み出す。観客に想像させる。そうした演出自体に問題はないが、説明しないことが、そのまま深みにつながるわけではない。

むしろ、何も説明しなくてよいのなら、どのような設定でも成立してしまう。

本作の戦争の気配も、物語全体を支える重要な設定というよりは、登場人物たちをより危険な状況へ追い込むための仕掛けに見える。

世界が崩壊しつつあるという壮大な背景を用意しながら、それが十分に描かれないまま終わってしまう。

曖昧さを残すことと、描くべきものを描かないことは違うのである。

映画祭での評価について

本作は第78回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞している。

どうやら国際的にも高く評価されているらしい。

確かに、16mmフィルムによる映像、電子音楽を大胆に使った音響、非職業俳優の存在感など、一般的な商業映画とは違う特徴がある。

しかし、それらは映画の表面的な特徴でもある。

映像が美しく、音響が強烈で、物語が予測不能で、宗教的な象徴まで用意されている。いかにも映画祭で評価されそうな要素が揃っているともいえる。

もちろん、それだけで受賞したわけではないだろう。

ただ、映画祭で賞をもらったことと、その映画が本当に独創的であることは別の話である。

解釈の余地が多い作品ほど、何か深い意味が隠されているように受け取られやすい。しかし、わからないことが多い映画と、深い映画は同じではない。

観客がさまざまな解釈をできるからといって、作品そのものに豊かな内容があるとは限らない。

映画祭の評価は一つの評価にすぎない。受賞したからといって、その作品を特別なものとして扱う必要もないだろう。

奇抜な物語と映画の独創性

本作には強烈な映像がある。独特の音響がある。突然の悲劇もあれば、宗教的な象徴もある。

それだけ並べれば、ずいぶん独創的な映画のように思える。

しかし、それらを一つひとつ取り除いてみると、残るのは驚くほど単純なロードムービーである。

人が移動し、その途中で誰かと出会い、何かが起こる。それによって状況が変わり、また移動する。

結局はその繰り返しなのだ。

もちろん、映画の形式が古いからといって、それだけで作品の価値がなくなるわけではない。既存の形式を用いて優れた映画を作ることは十分に可能である。

しかし、本作のように奇抜な展開や強烈な感覚的刺激を前面に出す作品であれば、そこに何か新しいものを期待してしまう。

ところが、そうした要素をいくら重ねても、映画の根本的な構造は変わらない。

むしろ、独創的に見せようとするほど、内容の薄さが目立ってしまうようにも感じられる。

予測できない展開が優れた映画を生むわけではない。宗教的な意味を与えれば深くなるわけでもない。映像が美しければ新しいわけでもない。

問題は、それらを使って何を表現したのかということである。

本作には、映画の形式そのものを変えるほどの発見はなかったように思う。

いつかロードムービーを壊す天才が現れるのか

結局、ロードムービーそのままで、それ以上でもそれ以下でもない。

というか、ロードムービーという形式自体が、すでに一つの完成された構造なのだ。移動することによって物語が進むという前提がある以上、そこから抜け出すのは容易ではない。

たとえ奇抜なストーリーを用意しても、登場人物を突然死なせても、宗教的な意味を持たせても、それだけでは何も変わらない。

本作も、そうした仕掛けをいくつも用意している。しかし、それらが映画の形式そのものを変えることにはなっていない。

むしろ、何とか新しいものを作ろうとするほど、既存の形式の強固さが際立ってしまう。

映画祭で賞をもらっているらしいが、少なくともその評価が、映画そのものの新しさを保証するわけではない。

では、ロードムービーという形式を破壊することは不可能なのだろうか。

そもそも、移動を中心に据えた時点でロードムービーになってしまうのだから、その前提を壊すこと自体が矛盾しているようにも思える。

しかし、映画の歴史には、それまで当然とされていた表現方法を覆してきた作家たちがいる。

今では当たり前になった演出も、かつては誰かが初めて試みたものだった。

だから、まだ見たことのないロードムービーが生まれる可能性も、完全には否定できない。

どんな映画なのかは想像もつかない。というより、簡単に想像できるようなら、すでに誰かが作っているだろう。

『シラート』は、そういう映画ではなかった。

しかし、いつかロードムービーという形式そのものを壊してしまう天才が現れるかもしれない。

そんなことを期待しながら、これからもロードムービーを観ていくのだろう。

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